宣教師の秀次評
では、同時代の評判はどうだったのだろうか。
秀次は周知のように、秀吉に嫡子の拾(のちの秀頼)が誕生し、秀吉との関係がこじれた挙句、文禄4年(1595)7月15日、高野山で自害している。現職の関白の自害など前代未聞で、それが秀吉の責任となれば豊臣政権へのダメージは大きいので、政権は秀次に謀反の冤罪を着せ、妻子ら三十余人を虐殺。以後、秀次には残虐非道な暴君というイメージを徹底的に押しつけた。
この事情がある以上、同時代に秀次を積極的に評価することは憚られたはずだ。「秀次事件」の前に、秀次についての好意的に書かれていても、その記述はその後、消されてしまったことだろう。
だが、そんななか消されずに残っている記述がある。それは、日本の為政者に忖度する必要がない宣教師ルイス・フロイスが書いた『日本史』のなかに見つかる。まず、関白になる前の秀次について、こう書かれている。
〈この若者(孫七郎殿 註・秀次のこと)は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった〉(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)
「殺生関白」のイメージとはあまりにも異なる。
深く道理と分別をわきまえた人
関白になったのちの秀次については、こう書かれている。
〈関白の甥である新関白秀次は、弱年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった。そして平素、良識ある賢明な人物と会談することを好んだ。彼は関白から、多大の妄想と空中の楼閣とも言える、上記のような内容の書状を受理したが(註・朝鮮半島への出陣準備を命じ、中国を征服後は秀次を中国の関白にする、と書かれた秀吉からの書状)、ほとんど意に介することなく、かねてより賢明であったから、すでに得ているものを、そのように不確実で疑わしいものと交換しようとは思わなかった。彼は幾つか皮肉を交えた言葉を口外したものの、伯父関白との折合いを保つために、胸襟を開くことなく自制していた〉
キリシタンへの迫害をはじめた秀吉を批判するために、秀次を誇張して高く評価している、という見方もある。それも多少はあるかもしれないが、宣教師がポルトガル語による記録のなかで秀次を持ち上げたところで、なにも利するところはない。内容はおおむね信用できるのではないだろうか。
残された多少の逸話にも、秀次が凡庸とはいえなかったと類推される内容は見受けられる。

