「妊婦の腹を割いて胎児を出した」説
史実の秀次も、天正12年(1584)4月、小牧・長久手の戦いで別動隊を率い、徳川家康の軍勢の奇襲を受け大敗を喫した。しかも池田恒興と元助父子、森長可ら錚々たる部将を戦死させる結果となり、秀吉は激しい怒りを記した折檻状を送りつけている。だが、このとき秀次はまだ17歳か18歳。重い責任を問われるのも酷だろう。
では、成長したのちはどうだったのか。『信長公記』の太田牛一が記し、江戸時代初期の慶長15年(1610)前後に成立した『大かうさまくんきのうち』には、秀吉の跡を継いで関白となった秀次の悪評が並べ立てられている。たとえばこんな具合である。
〈院の御所崩御と申すに、鹿狩りを御沙汰候。法儀も政道も正しからざるあひだ、天下の政務を知ること、ほどあるべからずと、京わらんべ笑つて、落書にていわく、院の御所にたむけのための狩りなればこれをせつせう関白といふと、かように書きつけ、立てをきさぶらひし
(正親町院が崩御されたのに、秀次公は鷹狩をなさいました。仏法の作法も政治の道理も正しくなく、これでは彼の政権も長くないだろうと、京都の民衆はあざ笑って落書きをしました。「亡くなった院の手向けとして行う狩りだから、これは摂政でなく殺生関白だな」と高札に書きつけ、立てさせたのです)〉
こうして「殺生関白」なる不名誉な呼び名をつけられた秀次の所業は、同書によればあまりにひどい。女人も殺生も禁じられた比叡山に女房たちを連れて入山して鹿などを狩る、というのはまだマシな逸話だ。稽古と称して鉄砲や弓で通行人を射抜き、刀を試すために辻斬りをし、北野天満宮で盲人の腕を切り落とし、妊婦の腹を割いて胎児を確認する――。
豊臣の悪行を一身に背負わされた
秀次の無道ぶりが強調されたこれらのおぞましい逸話は、小瀬甫庵『太閤記』以下、のちの史書や読み物などに詳しく引き継がれ、「殺生関白」のイメージがつくられていった。だが、じつは秀次と同時代の史料には、これらを裏づける記述はまったく確認できないのである。
大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は、秀吉が築いた大坂城を土中に完全に埋めて徳川の大坂城を新造し、秀吉にあたえられていた豊国乃大明神の神号を剥奪して、秀吉の墓である豊国廟の参道を塞ぐなど、豊臣政権の痕跡をとことん消し去ろうとした。とはいえ、過去に豊臣政権が存在し、徳川家康も臣従していたという史実までは、消し去ることはできなかった。
そこで標的になったのが、秀吉によって謀反の罪を着せられ、死に追い込まれた秀次だったのではないだろうか。藤田恒春氏は『豊臣秀次』(吉川弘文館)に次のように書いているが、的を射ている。
徳川の治世になって、否定すべき「豊臣の悪行」を一身に背負わされた可能性が高い、ということである。

