日本経済の成長力が弱くなった現在、次のリーディング・インダストリーを見つけるのは難しい。一定の条件が整えば、化学産業には、その役割を担う可能性が大いにある、と筆者は説く。
「知る」と「解る」の違いはどこにあるのか
近時マスコミなどで、何度か繰り返される政治家の出処進退の判断の是非。外から言うかぎりは、どうとでも言える。だが、内に入り事情を深く知ると、人と人との関係が絡み、判断はことのほか難しい。誰しも、出処進退や仕事の踏ん切りのつけ方には悩むものだ。今回は、阿部謹也氏の「解るとは何か」そして「何が解れば解ったことになるのか」についての議論を手がかりに、出処進退に絡んで、「仕事の成否を自分に問う」こと、〈大問題〉を立てることの大事さを考えたい。氏は、ヨーロッパ中世史の研究で知られ、一橋大学の学長を務められた碩学である。
さて、阿部氏の著作の一つに、『自分のなかに歴史をよむ』(筑摩書房、1988年)がある。そこでは、「解る」ということにまつわる自身の経験が紹介される。
一つは、氏が学生時代に卒業論文のテーマを選ぶために、その後、氏の先生となる上原専禄先生に相談にいかれたときの経験である。そのとき上原先生からは、「どんな問題を選んでもよいが、それをやらなければ生きてはいけない、そんな問題を選びなさい」と言われたという。たかが卒業論文と言うなかれ、である。
上原先生は、知ると解るの違いを区別されていた。「『解る』ということは、それによって自分が変わること」だと言われる。「何かを知る」だけでは、自分が変わることはない。今までの自分に、何かが加えられるだけだ。だが、「解る」というのは、知る以上のことであり、自分の人格やこれまでの生き方の変更を迫るものだというわけだ。
卒論であれ何であれ、知りたいテーマを選ぶだけでなく、「解る」に迫るような、つまり「自分の生き方」に関わるようなテーマを選ぶ。あるいは、人から与えられたテーマであっても、「自分の生き方」に関わるようにテーマを設定し直す。そうした覚悟が必要なのだ。
生き方に関わる研究テーマを持つ。そのことの値打ちは解りにくいかもしれない。しかし、研究者には必須だ。なぜなら、自分の生き方に関わるテーマであれば、「研究で導き出したこの結論は、正しいかどうか」を、自分の心に問うことができるからだ。自分を懸けるのか、口舌の徒で終わるのかの境目はそこにある。