記憶力の衰えは関係ない。英語で収入をアップさせた全国通訳案内士の櫻井篤さんに、キャリアの停滞を打破した経緯とその後の人生を聞いた。

28歳、米国出張で感じたフライドポテトの屈辱

幼い頃からモータースポーツが好きだった私は、大学卒業後に三菱自動車工業へ入社し、60歳の定年まで勤め上げました。もともと私は、自他ともに認める「英語アレルギー」でした。しかし、定年退職した現在は全国通訳案内士として、英語を駆使し、外国人をガイドする日々を送っています。

櫻井篤さん
櫻井 篤 Atsushi Sakurai
1960年生まれ。三菱自動車工業で37年間、生産技術に携わる。定年後に全国通訳案内士を取得し、通訳ガイド・添乗・企業研修通訳として活動。大阪・関西万博でアシスタントディレクターを経験。趣味は車と酒。夢は楽しく誇らしく一生現役。

私の英語アレルギーは、中学生の頃からすでに始まっていました。単語と文法をひたすら暗記させられる学習がどうしても好きになれなかったのです。今思えば文法は便利な道具なのですが、当時は「三単現のS」や過去形といったルールを押し付けられるのが、ただただ苦痛でした。

大学受験でも「いかに英語から逃げるか」に必死で、大学選びの基準は「二次試験に英語がないこと」でした。私は「大学共通第1次学力試験」の第1期生だったのですが、英語もマークシート方式だったおかげで、当てずっぽうでもなんとか三重大学の工学部機械工学科に滑り込むことができました。もしマークシート方式でなければ、私は大学に行けていなかったでしょう。

しかし、大学に入っても英語アレルギーは治りません。1〜2年生で終えるはずの英語の単位を3年生まで引きずり、後輩たちに交じって授業を受けていました。卒業後に三菱自動車工業へ入社してからも、会社で強制的に受けさせられた英検2級で1次試験に落ちたのは、同期の中で私を含めて2人だけでした。

そんな私に、28歳のときに1つ目の転機が訪れました。半年間のアメリカ出張を命じられたのです。場所はイリノイ州のブルーミントンでした。

当時は「ついにうちの会社も海外進出か」という期待もありましたが、やはり英語がネックでした。現地の塗装工場を立ち上げる業務だったため、身振り手振りで指示を出せば、仕事自体はどうにか回りました。

ところが、一歩現場を離れると、惨めな思いの連続でした。今でも覚えているのは、マクドナルドでフィレオフィッシュを食べようとしたときのことです。何度「フィッシュフライ」と言っても通じず、面倒くさそうな顔の店員に「Here you go!」と雑にフライドポテトだけを出されました。

反論する英語もわからない私は、苦笑いしながら「サンキュー」と言って、お腹が減っているのにポテトだけを食べるしかなかったのです。

現地のホームパーティーに呼ばれたときはさらに辛かった。みんながジョークを言って笑っている輪の中で、私だけが内容を理解できず、わかったフリをして愛想笑いをするしかないのです。あの「疎外感」こそが、私が本気で英語を学習しようと思った最初の動機になりました。

帰国後、その悔しさをバネに勉強し、TOEICのスコアを300点台から600点まで引き上げました。勢いづいた私は、「出張ではなく、駐在員としてアメリカに行きたい」と希望を出しました。

(構成=本誌編集部 撮影=梅田信幸)