豊臣兄弟を支えた軍師・竹中半兵衛(演・菅田将暉)の最期はどのようなものだったのか。日本大学総合科学研究所の早川智教授は「天正7年(1579年)6月13日、播磨三木城の包囲中に病に倒れ、36歳の若さで亡くなったとされている。当時の一次資料は少ないが、のちに日本人の『国民病』と言われるほど猛威をふるった感染症を患っていた可能性が高い」という――。
竹中氏陣屋跡 竹中半兵衛の銅像(岐阜県不破郡垂井町、2011年5月18日)
写真=時事通信フォト
竹中氏陣屋跡 竹中半兵衛の銅像(岐阜県不破郡垂井町、2011年5月18日)

豊臣政権を作った「影の功労者」

現代の企業経営者に、「あなたの会社で最も重要な人材は誰ですか」と尋ねるとしよう。多くの社長は営業成績トップの社員や優秀な役員、次期経営者候補、新たな技術を開発して特許を取得してきた社員などを挙げるだろう。

しかし、自らが起業して会社を発展させてきた創業経営者はべつの返事をするかもしれない。「自分が見落としている危険を教えてくれる人」「社内外の人間関係を円滑にする人」あるいは「有事の際に冷静な判断ができる人」だろうか。

戦国時代後期、豊臣秀吉には天下取りの過程で実弟・豊臣秀長や、川並衆と呼ばれる木曽川筋の土豪のリーダーだった蜂須賀小六正勝、まだ無名の若武者だった加藤清正や福島正則ら多くのスタッフがいた。その中でも、後の豊臣政権成立に尽力した立役者の一人は「天才軍師」と讃えられた竹中半兵衛であろう。

複数の記録に残る「たった16人のクーデター」

竹中半兵衛(重治)は、天文13年(1544年)美濃斎藤氏の家臣で美濃国大野郡大御堂城城主・竹中重元の長男として生まれた。弘治2年(1556年)長良川の戦いでは斎藤道三方の父に代わって城代を務めて義龍軍を撃退。後に臣従して、菩提山城に移った。

斎藤義龍の死後はその子・龍興に仕えた。道三の娘婿・織田信長が美濃に侵攻したときは半兵衛が創案した「十面埋伏じゅうめんまいふくの陣」と呼ばれる伏兵戦術でこれを撃退した。ただ、その功は逆に同僚の妬みを呼び、主君・龍興が寵愛した近臣・斎藤飛騨守に小便をかけられるなどひどい侮辱を受ける。

20歳の半兵衛は、小姓として龍興に仕えていた弟・久作の病気見舞いという名目で手練れの部下16人とクーデターを起こし、龍興を城外に逃亡させたという。いわば、日本版のトロイの木馬である。あまりにできすぎた話ではあるが、このことは同時代の美濃出身で甲斐の国の名刹・恵林寺の住職となった快川和尚の手紙ほか複数の記録がある。早速隣国の信長が美濃の国半国を褒美として与えるので城を譲れと持ち掛けるが、半兵衛は潔く稲葉山城を龍興に返還し隠遁する。