実際に得意としたのは「調略活動」

隣国近江の浅井氏の食客となり小さな領地を与えられているところに、織田家中で頭角を現してきた羽柴秀吉が何度も訪問して部下に迎えたという(この話は『太閤記』の名場面であるが、『三国志』における諸葛孔明と劉備の「三顧の礼」の翻案らしい)。実際のところは元亀元年(1570年)夏の織田軍の浅井攻めで秀吉が「美濃国人竹中氏、牧村氏、丸毛氏」を与力に加えたいと信長に要請して許されたと半兵衛の長男・重門の著した『豊鑑』に記されている。

その後は巷間伝わるような戦場での天才的軍略ではなく調略活動で活躍し、浅井方の豪族の切り崩しを図った。中国毛利攻めでも、備前八幡山城の調略と宇喜多直家の毛利方からの離反など直接の戦いを避けることを得意としていた。

のちに信長に謀反を起こした荒木村重に対し、帰服説得のために訪れた同僚の黒田官兵衛が捕縛・監禁された時のこと。半兵衛は、帰ってこない官兵衛が謀反に加わったと思い込んだ信長の目を盗み、殺害を命じられた人質の官兵衛嫡男・松寿丸を自らの領内に匿ったという。

しかし中国出陣前から体調を崩していた半兵衛は官兵衛が解放される前に、播磨三木城の包囲中に病に倒れ、陣中にて天正7年(1579年)6月13日に死去。享年36であった。

両兵衛に共通する「資質」とは

戦闘にあたって、指揮官にその方法を進言するのは軍師の仕事である。その典型として先述した三国志の伝説的名軍師・諸葛亮孔明が思い浮かぶ。

わが国では古くは日本に唐の国から孫子の兵法を伝えた吉備真備、平安時代末期の治承・寿永の乱で源義経についた梶原景時(もっとも義経はその意見を全く聞かなかった)、室町から戦国時代では関東に山内上杉氏の覇権を確立しながら、後にその才を妬んだ主君に討たれた太田道灌、今川義元の指導僧から宰相となった太原雪斎(崇孚)、武田信玄に川中島で啄木鳥の戦法を進言した山本勘助、そして豊臣秀吉の天下取りを助けた両兵衛こと竹中半兵衛(重門)と黒田官兵衛(如水)が思い浮かぶ。

如水居士画像(崇福寺蔵)・部分
黒田官兵衛の肖像画(崇福寺蔵)(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

しかしながら、戦国時代における狭義の軍師の任務は出陣に伴う風水占いと決戦日時の決定、陣立て、凱旋時の敵将の首実検など陰陽師に近い仕事が中心であった。現代の我々が想像する参謀本部的な仕事は副次的である。先に述べた両兵衛の作戦談をはじめ、甲州流軍学や北条流軍学、宇佐美流軍学、山鹿流軍学などはすべて平和になった江戸時代の産物である。

では彼らは何をしていたのか。真田信繁(幸村)や太田道灌など第一線の武将として戦闘行為に勇名をはせた軍師もいたが、両兵衛の場合インテリジェンスを駆使して、敵方の調略を優先して彼我ともに損害を被る決戦を避けようとした。そして、どうしても避けられぬ時でもその損害を最小にする能力に長けていた。これは陣頭に立って采配を振るうことに比べて目立たないが大軍の戦略を維持するうえでは兵站と並んで必須の任務であり、これを任せられる人材は多くはない。

不治の病で死を覚悟した竹中半兵衛は自らと同じ資質の持ち主である黒田官兵衛を見出し、身の危険を顧みず後事を託したのであろう。