実際に得意としたのは「調略活動」
隣国近江の浅井氏の食客となり小さな領地を与えられているところに、織田家中で頭角を現してきた羽柴秀吉が何度も訪問して部下に迎えたという(この話は『太閤記』の名場面であるが、『三国志』における諸葛孔明と劉備の「三顧の礼」の翻案らしい)。実際のところは元亀元年(1570年)夏の織田軍の浅井攻めで秀吉が「美濃国人竹中氏、牧村氏、丸毛氏」を与力に加えたいと信長に要請して許されたと半兵衛の長男・重門の著した『豊鑑』に記されている。
その後は巷間伝わるような戦場での天才的軍略ではなく調略活動で活躍し、浅井方の豪族の切り崩しを図った。中国毛利攻めでも、備前八幡山城の調略と宇喜多直家の毛利方からの離反など直接の戦いを避けることを得意としていた。
のちに信長に謀反を起こした荒木村重に対し、帰服説得のために訪れた同僚の黒田官兵衛が捕縛・監禁された時のこと。半兵衛は、帰ってこない官兵衛が謀反に加わったと思い込んだ信長の目を盗み、殺害を命じられた人質の官兵衛嫡男・松寿丸を自らの領内に匿ったという。
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