竹中半兵衛が患った病の正体

では、半兵衛の生命を奪った病は何か。おそらくは結核だったのではないかといわれている。

若い時の半兵衛は女性のようにやさしい顔立ちで体格も優れていないため斎藤竜興や近習たちに軽んぜられていたという(新井白石『藩翰譜』)。陣中で自分の死期が近いことを悟った半兵衛は、三木城攻めが終わったら高野山金剛峰寺に僧として隠遁する準備をしていたともいう(同書)。

ただ、三木城はなかなか落ちず、静養中の洛北の別邸から平井山の陣中に戻った半兵衛は自らの持病は不治の病であり、静養して治るものではないので戦地にたおれても秀吉の役に立ちたいと述べた。そして戦場に近い与呂木の民家に床を延べさせたが、病床でも常に手足を動かして合戦に備えていた(『武功夜話』)。

亡くなる直前に同僚にしたためた“遺書”

亡くなる直前には同僚の前野将衛門長康に「それがし帰陣以来、病臓にいりて聊かもって閉口、お役にも相立たず因伏し候も手肢上下歩行は異これなく候。(中略)当今乱国いまだ畿内治らずなお四強構えて譲らず前途冥々たり。我湖北の閑居を払って平天下道の志を得たりといえども病褥に座起すれば、雨滴むなしく骨力相無候。(中略)御主筑前様案じ入り候事に候、武辺功名は競わず明通安らん事乞い願居候」という遺書のような手紙をしたためている。

ただ、半兵衛の活躍や病に倒れてからの記録のほとんどが江戸時代になってからのものであり、同時代の一次資料は極めて少ない。半兵衛の同僚であった前野長康の事績を子孫が記したという前述の『武功夜話』に比較的詳しい記載があるが、この資料自体が偽書であるという批判もあって真偽のほどがはっきりしないのである。

言えることは若いころから蒲柳の質で、先陣に立って活躍するタイプではなかったこと、亡くなる数年前から慢性の消耗性疾患にかかり静養していたが死期を悟って戦場に戻ったこと、死の直前まで意識は清明で知力の衰えもないことであろうか。36歳という没年を考えると、結核が最も疑わしいが、喀血や慢性の咳嗽など特徴的な症状の記載はない。

竹中半兵衛の墓。現在でも献花が絶えない(兵庫県三木市平井山)
撮影=プレジデントオンライン編集部
竹中半兵衛の墓。現在でも献花が絶えない(兵庫県三木市平井山)