無意味な努力を正当化する〈美学〉を避ける方法

たとえば、導き出した結論が常識と食い違っていたとしよう。しかし、自分の心に問えば、どう考えても結論が間違っているようには思えない。それも、自分の生き方が関わってそう思うわけだから、その確信は強い。そのとき、「常識のほうが間違っているのではないか?」という疑問が生まれる。常識に抗しうる自分の立脚点が、そこに生まれる。

自分の結論が間違っているのか、常識が間違っているのか、それはその段階ではわからない。もしかして、自分の結論ないしは立脚点が間違っていることもありうる。だが、そのことが解る瞬間とは、まさに自分の知らなかった世界が開ける瞬間でもあるのだ。

「解る」に関連した氏のもう一つの経験は、氏がドイツに留学をして、一人、文書館で古文書を読む作業を続けていたときのこと。氏の留学の目的は、日本では手に入らないドイツ騎士修道会史の大量の古文書を読むことであった。氏は、ヨーロッパ中世農民の日々の生活に、彼らの顔が浮かんでくるようなレベルで迫りたかった。

文書館に通い、古文書を紐解く日々が続いた。そのうち氏は、形而上学的な一つの疑問を持つに至った。「ドイツ騎士修道会の何が解ったら、ドイツ騎士修道会が解ったことになるのか」と。トートロジカル(同義反復的)で意味のない疑問に思えるかもしれない。だがそうではない。研究者には、避けては通れない問題なのだ。

「膨大な古文書の中で溺れてしまうことにならないか」「いつまで経っても終わりのない作業を営々と続けることにならないか」という不安。下手をすると、古文書を読むことがすなわち自分の研究と思ってしまいかねない。視野狭窄とは、そういうことを言う。

悪くすると、自分の(無意味な)努力を正当化する〈美学〉さえつくり出してしまいかねない。〈美学〉に取り憑かれると、何もかもが正当化される。たとえば、太平洋戦争末期、日本軍による特攻隊や全軍玉砕は、そうした〈美学〉に導かれたものだ。玉砕や特攻攻撃が自分たちにめざましい成果を生み出さないことがわかっていても、それが実行される。いやむしろ、何も生み出さないことのほうが美学をいっそう美学らしくする。「武士道は死ぬことと見つけたり」という武士道精神の無目的の美学が持ち出されたりする。そうした精神的な逼塞状況に陥らないようにするには、仕事を続ける努力の中から、「得るべき果実=目的」をあらかじめはっきりさせておくことが必要なのだ。