やっとクマの口から手が抜けた

「グフォッ、グフォッ」

どれだけ時間が経ったのかは分からない。多分1分も経っていなかったのではないかと原田は言う。

口に手を突き立てられたままのヒグマが、苦しそうに喘ぐ息遣いで我に返った。音が聞こえるということは、自分は生きていることを意味する。これだけ攻撃されても、まだ死んでいないことが驚きだった。クマも相当に参ってきているようだが、自分の出血もひどい。

命はまさに、風前の灯火だ。何か次の手はないのか、必死に考える。すると、下半身はまだ動かせることに気がついた。つま先でクマの腹を探る。一番柔らかそうなところをめがけ、渾身の力で蹴り上げた。

すると、「バクンって音がして、クマの口から手が抜けたのを感じたんだ」。急に体が軽くなる。ヒグマはようやく原田の体を離してくれたのだ。そして荒い息をしながら遠ざかり、気配を消した。

ヒグマ
写真=iStock.com/Dmitri Zelenevski
※写真はイメージです

もしかしたら助かるかもしれない。折しも、胸元につけた無線機から仲間の声が聞こえてきた。

「大丈夫か⁉」手探りでトークボタンを押して応答する。

「クマにやられた」
「なんだと! 場所は?」

歩き慣れた山で、ポイントの通称も仲間と共有していた。

「馬の背の稜線の2本目、7つある涸れ沢の1番目だ」
「分かった、すぐに行くから待ってろ!」

無線の音が途絶えた。

立ち去ったヒグマは、今どこにいるのだろうか。実はすぐそばに身を潜め、また襲ってくるのではないだろうか。相変わらず目は見えていないし、鼻も効かない。頼りになるのは聴覚だけだ。

必死に耳をそばだてる。木の葉やササが少しでも音を立てるだけで、ついさっき頭に齧りついてきたヒグマの姿が蘇る。体が震え始めた。原因は恐怖心だけではない。

大量の血液を失った結果、体温が低下してきたのだ。異常に寒い。時間が経つにつれ、震えは増すばかりだ。

「死ぬときってこんな感じなのかもな」と考える。自分はいつまで意識を保っていられるのだろうか。1分が1時間にも感じる……。

狩猟仲間が見た顛末

原田より9歳下の藤部博は、原田を狩猟の師匠として慕っており、この日も一緒に白糠の山に入っていた。原田がヒグマに襲撃されているとき、藤部は1キロほど離れた地点にいた。他の2人の仲間は別々でシカを探していて、藤部は1人だった。

突然、ライフルの発砲音が連続で響いた。

「まるで、昔の西部劇に出てくる早撃ちガンマンのような連射でした」

藤部は、原田がシカを撃ったのだと思った。すぐに藤部は銃を抱え、物陰に身を隠した。原田に発砲されたシカ、あるいは銃声に驚いた別のシカが、自分のいる方向に逃げてくるかもしれない。それを仕留めようと思ったのだ。