俺はもうダメだ……
「大丈夫かっ! しっかりしろ!」
聞き慣れた藤部の声に安堵感が押し寄せるとともに、原田の張り詰めていた気も緩んだ。
「俺はもうダメだ……」
「ナニ言ってんだ! 絶対に助けるからなっ」
「本当にお世話になったな、ありがとな……」
弱々しくつぶやく原田を、「そんなこと言うな、もう喋らんで!」と藤部が一喝する。藤部は自分の上着を脱ぎ、ガタガタと震えている原田に被せた。原田は、そのとき感じたほんのりとした温かさを、今でも鮮明に覚えているという。
当時、原田たちは携帯電話を持っていなかった。たとえ持っていたとしても、山奥では電波は繋がらなかっただろう。藤部は必死に無線で仲間を呼び続けた。
30分ほどして、ようやく1人がつかまった。
状況を伝えると、彼はすぐに車で山を降り、固定電話がある家まで走って救援を要請した。
《ピーポーピーポー》
生死の境をさまよう原田の意識を、救急車のサイレンが覚醒させた。仲間が林道の入り口で救急車を待ち受け、それに乗り込んで山を上がってきたのだ。
「諦めてなるものか」
原田は気持ちを奮い立たせた。脳裏に浮かんだのは妻の顔だった。普段からよく尽くしてくれ、狩猟にも快く送り出してくれる。
「アイツのためにも、まだ死ぬわけにはいかない」
救助ヘリが着陸できない……
直線距離にして300メートルほどの位置で、救急車は止まった。原田が倒れている斜面には入れなかったが、谷を挟んだ向かいの稜線まで、林道伝いに走ってきたのだ。即座に担架を準備する隊員たち。
しかし、なかなか車から離れようとしない。原因はヒグマの存在だった。救急隊員と原田との間には、手負いのヒグマが潜んでいる。さらに、少なくとも1頭の子グマが近くにいる可能性がある。
原田を助けようとする救急隊員がクマに襲われるという二次被害を防ぐため、地元猟友会のハンターの出動が要請されていた。だが、そのハンターがなかなか来てくれない。もどかしい時間がジリジリと過ぎてゆく。
今度は、ヘリコプターの音が近づいてきた。救急車が現場に入れない事態を想定して手配されたものだ。機体は原田の頭上に達したが、降下してくれない。木々が生い茂り、着陸できないのだ。右往左往する爆音から、パイロットが降りられるポイントを懸命に探していることが感じられる。
「頼む、なんとか頑張ってくれ」
しかし残念ながら、十分に開けた場所はどこにもなかった。原田の必死の祈りも虚しく、ヘリの音は遠ざかっていった。

