「“水商売”をやるのか」と母親に泣かれる

ほっかほっか亭は1976年に埼玉県草加市に1号店を開いている。池田社長が買いに行ったのは開店から少し過ぎた頃だったが、評判は高まっていた。ご飯のうえに鰹節をかけ、その上に海苔を敷き、そこに魚の白身と竹輪のフライを置いたのがのり弁で、ほっかほっか亭がブームに火をつけた。のり弁についての池田社長の説明が止まらない。

「コメは高級ブランド米のササニシキでした。当時、私が日常的に食べていたのは『標準米』と呼ばれていた安い米だったから、格が違う。それを、ホカホカの状態で詰めてくれる。海苔も一級のものが使われていました。そのときの価格が260円だったかな、当時としては安い値段ではなかったけれど、メチャクチャうまかったですよ」

のり弁に感動した池田社長は、ほっかほっか亭で働くことを決意する。といっても、ほっかほっか亭を運営する会社にではなく、フランチャイズ(FC)店として自分で店舗経営することを選んだのだ。

「母親には『大学卒業して“水商売”やるのか』と泣かれました。“水商売”と言ってましたからね。学校の先生になると思っていたのに、ガッカリしたんでしょうね。泣くとは思わなかったので、びっくりしました。それでも、決めたことを変えるつもりはありませんでした」

母親に外食産業に進むことを伝えたときのことを語る池田社長
撮影=プレジデントオンライン編集部
母親に外食産業に進むことを伝えたときのことを語る池田社長

当時は、大卒ならそれなりの企業に楽に入社することができた。それだけに外食産業は、大卒者が選ぶ職種ではなかった。「せっかく大学を卒業させたのに」という思いが、母親としてはあったのかもしれない。

先輩と共にFC店を4店舗経営

大転換を決意させたのり弁だが、じつは現在、ゆで太郎システム系店舗のメニューには、のり弁がある。池田社長の、のり弁に対する思い入れがうかがえる。

さて、ほっかほっか亭のFC店をだすには資金が必要である。学生時代にアルバイトで稼いだ貯えがあったものの、それでは足りない。そこで、すでに大手保険会社に就職して経済的に余裕のあった高校の先輩と共同経営することにした。2人の会社をつくり、ほっかほっか亭FC店の4店舗を運営することになった。

FC店としては順調だったのだが、1984年にほっかほっか亭が当時の大手スーパー「ダイエー」との業務提携をきっかけに先輩がFC経営から離れることに。4店舗のうち3店舗を先輩が引き取り、残りの1店舗は知人に任せたという。