処遇改善の要求案パートも対象に
1982年6月から、労働組合の委員長を務めた。40歳をはさむ10年間。委員長の任期は1年単位だったが、様々な経営課題や雇用面の改善問題に直面し、在任が長くなった。金融の超緩和が続き、バブル経済が膨張していく時期から、そのピーク、そして崩壊までが重なる。
銀行も商社も、メーカーや小売業まで、日本中がバブルに引きずられたとき。高島屋の経営陣もいろいろと手を伸ばし、借入金が膨らんだ。組合はどちらかと言えば批判的で、労使交渉で厳しい意見を重ねた。
委員長になったとき、公認会計士を先生に役員たちと勉強し、経営データを分析、貸借対照表(BS)を読み込めるようにした。労使協議の場で、経営側に「足元はよくみえるが、BSなどはかなり厳しい状況になっているのではないか」と問いかけることが、何度もあった。
結局、海外でホテルを買うなどの案件が、いくつも中止となる。組合の進言があったからではないかもしれないが、決断の1つの要素だったかもしれない。すでに関連会社で手がけていたものは、バブル崩壊後にうまくいかず、整理する例が多かったが、全体の傷は浅くて済む。
では、当時の経営陣を批判するかと言えば、そうはしない。どの企業もが激流に巻き込まれているとき、その中に高島屋もいたことは仕方ない。むしろ、ある程度まで抑制した点は、評価されてもいい気がする。当時できたシンガポール高島屋のように、花が開き、いまやグループの核の1つになっている例は、数は少ないが、先見の明とも言える。