直訴を決断させたコスト削減の確信
1990年から93年にかけて、ドイツのミュンヘン郊外にあるBLVというランプ子会社の副社長だった間に、日本の上司から「きみに託した任務は、もう止めていい」という電話を、2度も受け取った。熟慮したうえで、東京の会長、社長に電話を入れて、任務の継続を訴えた。
トップへの直訴は、組織では大半が「禁じ手」とする。意志決定は、トップダウンにしろボトムアップにしろ、何段階かの役職者を経て進められるのがルールであり、「俺は聞いていない」との不満による波風を防ぐのが手順だ。直訴は、できれば使いたくない手法だが、ドイツの工場で課せられた責務を果たさなければ、会社の将来に禍根を残す。
BLV買収は、89年暮れに動き出し、社長室主任技師として交渉に加わった。いったん、買収価格を高く示した他社に割り込まれて断念したが、そちらが不調に終わり、復活した。その舵取りに赴くことは想定外。でも、創業者の牛尾治朗会長の「じゃあ、きみ、いってこい」のひと言で、初の海外勤務へ出る。生産設備の内製、生産ラインの自動化などの任務を負い、41歳の誕生日に、独りミュンヘンの地を踏む。
オランダに次ぐ欧州2つ目の生産拠点を手にした理由は、こうだ。当時、小型のデータ投光器用の特殊ランプが世の中に出始め、ウシオも開発していたが、量産技術がない。BLVは、その特殊ランプを、一般照明用に量産していた。その技術を手に入れるのが、最大の目的。もう1つ、89年秋にベルリンの壁が崩れ、東西ドイツが統一へ向かい、企業がドイツを足掛かりに東欧やロシアの市場を狙う「東の風」が吹いていた。ウシオでも、何らかの拠点をつくったほうがいい、と判断した。
BLVは、300人規模のオーナー企業だったが、米GEから独立した面々のベンチャー企業に買収された。特殊ランプの技術は、そのGEに源流がある。ただ、BLVの主力商品の一般照明用ハロゲン電球が、アジアの新興勢力との価格競争に負け始めていた。そこで、年間売上高の半分にも当たる十数億円を投じて、自動生産ラインをつくり、コストダウンを図った。だが、資金が回らなくなって、身売りした。