論理を重んじる「物理屋」の気構え
1949年11月、神戸市で生まれる。一人っ子で、両親と父の母との4人暮らし。小学校時代から、工作が好きだった。かまぼこの板で船の模型をつくったのが始まりで、高学年のときはゲルマニウムラジオづくりに夢中になり、6年生でアマチュア無線の免許を取得する。アマチュア無線は、県立神戸高校で物理天文研究会に入ってからも続け、人工衛星時代を迎えて、その信号を受ける受信機やアンテナもつくった。
このころ「これからは光技術だ」とする本を読み、京大理学部の物理学科へ進む。4年になり、大学事務局で就職情報誌をみて「光の専業メーカー」を探すと、2社しか載っていない。うち1社だったウシオ電機は、社長が30代で創業したと知って、「若い社長の会社なら、面白いだろう」と思い、姫路の工場へ入社試験を受けにいく。数学と英語、物理の試験があり、量子物理の方程式に関する高度な問題もあって、階段がギシギシと鳴る木造2階建ての事務所との対比ぶりに、驚いた。
72年4月に入社、横浜事業所の商品部へ配属され、新商品の設計などに携わる。2年目に、ブームが去ったボウリング場の活用に、任天堂とともに開発した体感型「レーザークレー射撃ゲーム」に巻き込まれた。2レーンごとに4種類の投光器を設置し、10本のピンが立っていたあたりに懸けた巨大なスクリーンを使って、放物線を描くように飛ぶ円盤状のクレーと銃の間で赤外線レーザーをやりとりし、本物のような命中感を楽しむゲームだ。
新設された合弁会社へ出向し、全国約20カ所に設備の設置へいく。開業日には、緑色のブレザーに白いズボンをはいて、指導役も務める。うまく命中すると、客がすごく喜んでくれ、「仕事というのは、こういうことか」と手応えを感じた。独りで安宿に泊まり、設置した機械の調整を重ねる日々で、上司も誰もみていないから、手抜きも可能だった。でも、「愼其獨也」が続く。
ただ、出向は7カ月で終わった。第4次中東戦争が勃発し、石油輸出機構(OPEC)が原油価格を大きく引き上げ、第1次石油危機が始まった。世界的に総需要抑制策がとられ、日本もマイナス成長へ転落。ウシオは、創業以来初の減収減益となる。当然、ゲーム事業も伸びない。
横浜の商品部へ戻り、以後、新商品の設計や開発が続くが、【2】(http://president.jp/articles/-/11154)で紹介するように、40代に入ってからは新規事業や新商品には経営の立場で関わる形に変わる。「技術のわかる経営者」への道だ。
2005年3月、社長に就任。4月からの中期業績ビジョンで、3年後に「株価3000円超」との目標を掲げた。過去の最高値は、ITバブルと言われた2000年7月の3170円。株価が、会社の良し悪しを100%正しく表しているとは、思わない。でも、現在の実力や将来予想される姿を、かなり正確に反映し、経営者として最も重視しなくてはならない指標には違いない。
社員たちのベクトルを合わせるには、主観的な評価よりも、客観的な物差しが大切だ。もともと物理屋だからか、軸をなすことには、やはり論理的な部分がほしい。そして、物事を論理的に進めていくには、「愼其獨也」は当然の道だろう。