1945年6月、神奈川県鎌倉市で生まれる。自宅は由比ヶ浜の近くで、海岸まで歩いて5、6分。弟が1人で、父は東京・久松町で百貨店向けに毛織物の生地などを扱う問屋を営んでいた。夏になると、得意先だった銀座の百貨店の面々がやってきて、庭にテントを張り、海の家代わりにしていたのを、覚えている。

慶應高校に入ると、資産家の息子が多く、違和感をおぼえることもあった。でも、自由な校風がなじみやすく、そのまま64年に慶大経済学部へ進む。東京五輪があった年で、その暮れから、学費値上げ反対闘争が起きた。学生たちがストライキに入り、卒業式ができるかどうかの騒ぎを、鮮明に覚えている。でも、後で紛争が起きた早大、東大、明大に比べれば、穏やかに収まった。

百貨店の価値は「接客」にこそある

就職では、苦労した。67年夏に採用試験があり、2、3社受けてみたが、落ちた。成績はあまりよくなかったが、「どこでも受ければ、採用されるだろう」と甘くみていた。親友の父親が心配して、縁のある高島屋を紹介してくれた。当時はそうした縁故採用が多い時代。百貨店は想定外だったが、父が縁があったこともあり、68年春に入社する。

配属先は東京店6階の家具売り場で、お客も店員も女性が圧倒的に多いフロアだ。「嫁入り道具」だった箪笥と鏡台の3点セットや洋家具、カーテンなどを担当し、4年いた。

「組合人生」は、家具担当の後半、東京支部の専従執行委員を務めたのが助走だった。やがて、横浜高島屋など子会社の組合がいくつもあったのを統一し、連合会ができた。その連合会本部の書記次長をやってくれないか、と頼まれた。1年後には20代で中央書記長に選ばれ、「組合人生」が本格化する。