死とどのように向き合えばいいのか。福厳寺住職の大愚元勝さんは「仏教には、自分が死ぬ存在であることを明らかにしていきなさいという教えがある。自分は死なないと余裕をかましていると、一日一日を一所懸命生きることができなくなるからだ」という――。
※本稿は、大愚元勝『絶望から一歩踏み出すことば 大愚和尚の答え一問一答公式』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
「自分は死なない、老いない」と信じたい
私のいる福厳寺では、夜中に「ギャア!」というような断末魔が外から聞こえることがあります。何事かと外へ出てみると、鳥が狐に食べられていたりする。
羽根が飛び散って、もがき苦しんだ形跡はあるのですが、遺骸は見つかりません。
私たちが、部屋でネットやテレビを見て喜んでいる。そのすぐ外には、死と隣り合わせの厳然たる弱肉強食の世界が存在しています。
手負いになった動物は他の動物に食べられて、最後は微生物に分解されて土に還っていきます。人間も、さすがに食べられることはありませんが、自然の循環の中に取り込まれていて、いつか必ず死ぬという意味では例外ではありません。
にもかかわらず、私たちはあたかも死が訪れないような態度で生きている。
理屈ではわかっています、いつか死ぬことを。ところが感情がついてこないんです。
死はできるだけ来てほしくない、遠くにあるべきもの。そして絶対自分にだけは訪れないもの。自分だけは病気にならないし、老いないし、死なないと思っている。
死が初めて身近に感じられるのは、自分の愛する人が亡くなったときです。

