がんで死ぬことは不幸なのか。長年、消化器外科医やホスピス医として勤務し多くのがん患者を看取った小野寺時夫さんはそれを否定する。小野寺さんの同名書籍を新装復刊した『私はがんで死にたい』(幻冬舎新書)より紹介する――。(第1回)
患者から聞き取りをする医師
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「ポックリ死」は本当にいい死に方なのか

日本人は、死を口にするだけで「縁起でもない」と嫌う傾向が強い民族ですが、折に触れて「死」について考え、語り合うことが、逆によく生き、よい死を迎えるために欠くことのできないことだと私は信じています。

高齢になるにつれて身近な人や知人の死に接することが多くなると、自分はいつ、どういう死に方をするだろうかと誰もが考えると思います。

近年は、「ポックリ死」や「ピンピンコロリ」を望む人が増え、ぽっくり寺(寝たきりや認知症にならず、ぽっくり往生できることを祈願する寺)参りも盛んだと聞きます。仲間の医師のなかにも、眠ったまま目を覚まさないで逝くのが理想だという人もいます。

長い間寝たきりになったり、ひどい認知症になったり、がんで苦しんだりしたくないからでしょう。

認知症の進んでいる人やかなり高齢の人なら、ローソクの火が消えるようにフッと死ぬのはメリットがあります。しかし、そうでない多くの人にとって「ポックリ死」が本当にいい死に方なのでしょうか? 私にはそうとは思えないのです。

死ぬ前に別れの一言も交わせず…

腰痛持ちの女性Kさん(71歳)のカルテを見ると、飲んでいる睡眠薬と抗うつ薬の量が次第に増えているので、飲み始めたきっかけを聞くとこうでした。

2年前のある日、夕食の後に些細なことが原因でKさんは夫に小言をいいました。無言になった夫は毎日欠かしたことのない風呂にも入らず、早々に床につきました。翌朝、いつも早起きの夫が起きてこないので覗いてみたら、息をしていなかったというのです。

Kさんの夫は農家の次男で、分家してもわずかな農地しかもらえませんでしたが、荒れ地を安く買い足して夫婦で苦労して開拓し耕地を増やし続けました。やがて、優良農家として表彰されるまでになりました。亡くなる数年前からは、老夫婦だけで無理なくやれる広さだけに縮小し、これから旅行などを楽しもうと話し合っていたそうです。50年間一心同体で励まし合いながら生きてきたのに、死ぬ前に何の世話もできなかったこと、別れの一言も交わさなかったこと、そして些細ないさかいをしたことの無念さで頭がいっぱいになり、どうしても眠れなくなるというのです。