美しさを定義するのはおこがましい
考えすぎて「頭でっかちになっているな」と感じたとき、私は日本民藝館を訪れます。太い梁、漆喰の壁、無骨だけれど温もりを感じる木の階段。連子窓から差し込む光に包まれていると、まるで実家に帰ってきたかのように落ち着くのです。
東京・駒場の静かな住宅街に佇む日本家屋風の建物は、1936年に美術評論家・柳宗悦が蒐集した民藝品を展示するために建造されました。私の父は、「名もなき職人が人々の生活のためにつくった道具や日用品にこそ、驚くべき美が宿っている」とした柳宗悦の孫弟子で、私も幼少の頃からたびたびここを訪れていました。
実家にも、父が世界中から集めたたくさんの民藝品がありました。素朴な器を前に、いつも父は問うてきました。
「この皿から、何を感じる」
「……。」
「考えるんじゃなくて、感じなさい」
「美しいと思います」
「では“美しさ”とは何だ」
こんなやり取りが、幾度となく繰り返されたのです。最後は「もう、わかんないよ」と言って逃げていたのですが、中学生になって、私はノートをつけ始めました。美しさを定義する表現に出会ったら「美しさ=○○」と書き留める。別の定義を見つけたら「美しさ=○○=□□」とつなげる。これを続けていけば、いつか答えが見つかるだろうと思ったのです。
社会人になって資生堂に入社してからは、美について考える機会がさらに増えました。ある日ふらりと実家に帰ると、父がまた例の問いかけをしてきたので、私は摑みかけていた答えを投げてみました。
「この世界には“美しさ”があるわけじゃなくて、ただ“美しいもの”が存在しているだけじゃないのかな」
そのとき、初めて父が「うん、そうかもな」と言ったのです。これが、私が20年かけて見つけた、いちばん本質に近い答えだったかもしれません。
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