「煩悩を捨てろ」「無心になれ」とはいうものの、なかなかできるものではない。頭をからっぽにすると何がいいのか、そのためにはどうすればいいのか。
座禅をしている日本の僧侶
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自分を縛るものを減らしていく

目の前にお茶が入った湯飲み茶碗があるとします。でも、あなたは無性にコーヒーが飲みたくなりました。そんなとき、残っているお茶の上からコーヒーを注ぐでしょうか。しませんよね。まずするのは、器をからにすることだと思います。

「頭をからっぽ」にするというのも、同じこと。例えば「私はこうだ」「自分はこう思う」という考えでいっぱいの心でもって人の話を聞いても、それは混ぜ物にしかなりません。もしもいい話だと感激したとしても、それはただ自分が思っていることと合致していただけ。反対に、自分と意見が合わない人の話は、全部だめとなりやすい。何事も受け入れるには、まず自分をゼロにすることが先決となるのです。

ゼロにすれば、あとは何でも入ります。お茶の代わりにコーヒーを入れる。あるいは水でもビールでも、何でも入れることができます。でも大体の人間は、「自分はこう思う」といったいろいろな思いにとらわれています。例えば「この器は湯飲み茶碗で、ビールを入れるものではない」などと言う人がいるから、話がややこしくなります。

それでなくても人は「自分はこうだ」「自分はこう思う」ということに縛られがちです。それがなければもっと自由になれる。とくに「あの人が嫌いだ」「あいつが気に入らない」という人に対するネガティブな感情の持つエネルギーは、ポジティブなものより強いことが多い。縛られないように注意しなくてはいけません。その方向を変えて、「あいつをいつか追い抜いてやる」といったモチベーションとして活用するのです。負の感情を持った自分がいても、それを俯瞰している冷静な自分がいれば、負のエネルギーも活用可能となるのです。

禅宗の修行では、そんな自分を縛る考えに振り回されないよう、まず頭をからっぽにするのが大事なこととされています。そもそも坐禅という仏教の修行自体が、心を無にするための修行と言っていい。「無心」という言葉は、「何も考えないこと」と誤解されることがよくあります。「何も考えてはいけない……そう考えてしまっているのですが、どうしたらいいでしょう」。坐禅の初心者から、そんな質問が出ることもあります。たしかに何も考えないことほどむずかしいことはありません。厳密には、不可能と言っていいほどです。

そこで私は、「何も考えないこと」と混同されないように、無心の代わりに「一心」という言葉を使うようにしています。無にする代わりに心を寄せるのが、自分自身です。過去の自分や未来の自分でなく、今の自分をしっかり見つめる。そして今自分がやっていることにしっかり集中するのです。

例えば、私が坐禅の初心者の方にまずやってもらうようにしているのが、数息観すそくかんと呼ばれる方法です。自身の呼吸を意識しながら、「ひとーつ、ふたーつ……」と数を数え、「とーお」と10までいったらまた1に戻る。そんな一番初歩的で、シンプルな方法です。

これなら単純なので、自分にもできそうと考える人も多いでしょう。ところが初心者がやってみると……これがむずかしい。とても10まで数えられないのです。自分の呼吸のことだけ考えて、ひたすら数を数えているはずが、「今日の株価はどうなっただろうか」など、すぐに違う考えが頭をもたげてきます。気がつけば頭の中は株価でいっぱいに。それはそうでしょう。誰だって自分の呼吸の数より、株価のほうが興味深いですから。

同じように実生活で自分が今やっていることに集中しようとしても、よっぽど切羽詰まっていたり、命に関わっていたりしない限り、集中できないのが普通です。大体みんな、仕事をしながら遊ぶことを考えたり、反対に遊びながら仕事のことが気になったり。そんなふうになかなか目の前のことに、集中ができないのです。

もっと言えば、今の自分をしっかり見つめなければいけないというときに、私はああだったんだ、こうだったんだと、自分にまで言い訳をしていることがありませんか。こうなると、ありのままの自分を見つめて、自分に集中することとは、大きくかけ離れてしまいます。反対に、自分に集中することができれば、「心をからっぽにして」とか「捨てる」とか、わざわざ言う必要はなくなります。