※本稿は、中山祐次郎『医者の父が息子に綴る 人生の扉をひらく鍵』(あさま社)の一部を再編集したものです。
「その成績じゃ医学部は絶対無理だぞ」と忠告してくれた友の死
僕は、東京の病院で研修医として研鑽を積み、そのまま外科医として働いた。その病院は公立病院だったから常勤ポストに限りがあり、僕は非常勤勤務の待遇で働いていた。給料は年収500万円に届かず、毎年国際学会のため自費でヨーロッパに行き、高い東京の物価で好き放題飲み食いをしたから、貯金は34歳まで本当にゼロだった。
それでも、世界トップレベルの外科医たちに直に教わるという最高の環境だった。指導は厳しかったが、手術場を離れると上司たちとは家族のように親しくした。あまりに居心地が良かったから、僕は「このままではダメだ」と思っていた。
快適さは、成長しないことを意味する。ハーバード大学か東京大学の大学院を検討していた。
ある年の大晦日、一人暮らしをしていた築45年のボロマンションに僕はいた。
汚い畳に横たわりテレビを見ていると、NHKのニュースで、「福島第一原発に近い個人病院・高野病院の院長が火事で亡くなった」と流れた。年の瀬に大変なことがあるもんだ、と思った。
年が明けて1月4日、高校時代の友人から連絡が来た。
「Dが昨日死んだ」
Dは僕と同じ中学・高校で、サッカー部、バンド仲間、クラスメイトだった。高校3年生の時、「中山、その成績じゃ医学部は絶対無理だぞ」と忠告してくれたものだ。白血病にかかり半年の闘病で亡くなったらしい。
「僕が高野病院に行く」2カ月の臨時院長に
5日後、愛知県でお通夜に参列した。若い奥さんが泣いていて、その胸で幼な子がわけもわからず笑っていた。Dの死に顔は、治療のせいかパンパンに膨らんでいた。
帰りの新幹線で、僕は同期の友人たちと泣きながらめちゃくちゃにビールを飲んだ。その翌日のこと。医者の友人から連絡が来た。
「高野病院が存続の危機だ」
聞くと、院長亡きあとボランティア医師たちが一日交代で入院患者100余名を診ているという。地域には帰還した住民が3000人、原発作業員が3000人住んでおり、潰すわけにはいかないのだと。しかし、病院は法律で常勤医師が一名いなければ存続できない。
僕は頭が沸騰した。
僕が高野病院に行く。Dの顔がちらついた。
「俺はもう死んだけど、なあ中山、お前はどう生きるんだ」
そう言われた気がした。
その夜高野病院に連絡をし、3日後には福島に行った。亡くなった院長の娘の理事長に「ぜひ来てくれ」と言われた。当時同棲していた恋人に行こうと思うと告げると、心配だと泣かれ心が揺れた。
翌日仕事から帰ると、
「行ってきて。私はあなたを誇りに思う」
と泣きはらした目で言ってくれた。引っ越しも間に合わず、2週間後にトランク一つで福島入りした。
2カ月の臨時院長は、想像を超えて苦しい生活だった。幸い次の院長が見つかり、僕は福島県内の別の病院へと異動した。その時の恋人は今の妻である。