<君への手紙>

「他流試合をせよ」という教え

立派になるかならないか、高い技術を持つか持たないかは自分しだい、とよく言われる。だがそんなことはない。いかに厳しい環境に身を置くか。いかにアウェーな場所で奮闘するか。これが成長の鍵になる。

京都大学時代の師である福原俊一先生は「他流試合をせよ」といつも言っていた。なるほど、いつも自分の居心地の良いところにいると、成長はないよ、という意味だろう。自分で操縦することはない大型豪華客船を降り、僕は小さい舟に乗りかえたのだ。求められる技術が異なる以上に、それは厳しい覚悟を求められる場所だった。

人生は一度しかない。

仏教に輪廻転生という考え方があり、人や生き物は何度でも生まれ変わるという。しかし僕は信じないことにしている。理由は、前世を覚えている人はおらず、前世で得た経験を活かす人を見たことがないからだ。

であれば、たとえ前世があったとしてもないのと同じだ。来世もまた同じことだ。来世に期待せず、今回の人生が一回限りで、ここで何かをやるしかない。それが人間だと思っている。

しかも、残念なことに、その人生の持ち時間は知らされていない。15年なのか40年なのか100年なのか、誰も知らないのだ。人生は、終わる時間がわからないという強烈な設定なのである。そんな試験もゲームもスポーツも見たことがない。けれど、そんなことは普段考えることはない。もちろん、それでいい。

開けた道路と砂時計
写真=iStock.com/Ackun
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人生の持ち時間はわからない

僕は、友人Dの死によって、自分の人生の締め切りを思い知らされた。Dは僕より前に終わってしまったのだ。僕だっていつ終わるかわからないのである。だとしたら、いつ終わるかわからない今、何をするのか。

そういう精神状態の中、僕は福島の高野病院院長に手を挙げた。正直なところ、院長をやるための知識も技術もなく、おまけに若造だった。今考えてもむちゃくちゃだったと思う。

もし冷静に検討していたら、行ってもつらくてすぐ逃げ出すかもしれない、現地の人たちの迷惑になるかもしれない、恋人や親が寂しがるかもしれない、などと言って福島には行かなかっただろう。

でも、この人生はいつ終わるかわからないのだ。