※本稿は、曺貴裁『育成主義』(カンゼン)の一部を再編集したものです。
将来を嘱望された天才MFの苦悩
毎年のように出会いと別れが繰り返されてきたなかで、再びJ1の舞台に戻った15年シーズンには、日本代表でプレーした経験をもつMF山田直輝を期限付き移籍で獲得した。強化部へ獲得を進言したのは、実は僕だった。
14年シーズンの途中にさいたま市の大原サッカー場でレッズと練習試合を行ったときに、リハビリトレーニングに取り組んでいた山田を偶然見かけた。
「まだけがが治らないのか」
こう話しかけた僕は、山田のことをレッズのジュニアユース時代から知っていた。ベルマーレのジュニアユースおよびユースの監督として対峙したこともあれば、トレセンで実際に指導したこともある。どのような性格なのかも、ある程度はわかっていた。
「大変だな。またお前の楽しそうなプレーを見せてくれよ」
ちょっとだけ話した後に、激励の言葉をかけてその場は別れた。当時の心境を振り返れば、少なからずショックを受けていた。僕が知っている山田とは、表情がまったく違っていたからだ。過激かもしれないが、死んでいるかのようにかつての輝きが失われていた。
サッカーをしていても、まったく楽しそうじゃない
断りを入れられるかもしれない、と頭の片隅で思いながらも強化部からオファーを出してもらった。しばらくして、山田と直接交渉できる場が設けられた。都内のホテルで、14年シーズンは2試合、わずか15分間の出場にとどまっていた山田は「自分を変えたいんです」と思いの丈を伝えてきた。
期限付き移籍が正式に決まったのはその年の12月上旬だった。19歳になる直前に日本代表でデビューを果たし、近い将来はレッズと日本代表の中心になる、ヨーロッパで活躍すると期待された時期もあっただけに、期限付きとはいえレッズを離れることはメディアでも大きく報じられた。
年が明けて、新チームとして最初の練習を行った1月中旬に、僕は別の意味で再びショックを受けた。馬入ふれあい公園サッカー場のピッチで、失敗を恐れていたからか、山田はボールをもらおうとしなかった。何よりもサッカーが大好きなはずなのに、まったく楽しそうじゃなかった。
予想を上回る重症だと思わずにはいられなかった。1年目は17試合、出場時間は599分と前年よりは増えたものの、自分が思うプレー、やりたいプレーをピッチのうえでほとんど表現できなかったはずだ。
期限付き移籍を1年間延長した16年シーズンも、小さなけがが繰り返された。ようやく試合に絡める状態になったのは、セカンドステージも残り数試合になったころだった。11月3日に行われた名古屋グランパスとの最終節ではシーズン初ゴールを、それも2つも決めた。
1点目はミドルレンジから迷うことなく左足を振り抜き、2点目はDF田中マルクス闘莉王(現京都サンガFC)を吹き飛ばしてボールを奪い、角度のないところから右足で逆サイドのネットに突き刺した。いずれもアイデアとセンス、力強さが融合されたファインゴールだった。