世間の評価に出自は関係ない

苦悩も辛酸もなく、足を乗せればそのまま上に運んでくれるエスカレーターのような人生だった。庶民感覚からすれば、逆境から立身出世した人間に拍手を送ることはあっても、“銀のスプーン”をくわえて生まれてきた人間を称賛することはない。

ところが白洲次郎だけは違う。GHQと対峙した硬骨漢は「日本男児の鑑」としていまも語り継がれる。貧しくとも、あるいは“銀のスプーン”をくわえて生まれてこようとも、「世間の評価」と出自は何ら関係しないことを白洲次郎の処し方は私たちに教えてくれるのだ。

英国留学から帰国した白洲次郎は、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』の記者、次いでセール・フレーザー商会(当時、英国屈指の商社)に勤務したあと、1937年3月、35歳の若さで日本水産の販売部付取締役に就任する。

だが、順風のビジネスマン人生は太平洋戦争の勃発で暗転する。1941年12月8日、日本が開戦に踏み切ると、38歳の白洲は東京府南多摩みなみたま郡鶴川村(現・東京都町田市)に引っ込み、買った農家を「武相荘ぶあいそう」と名づけた。

鶴川村が武蔵国むさしのくに相模国さがみのくににまたがる場所にあったことからつけたとされるが、「無愛想」に引っかけた白洲一流の【しゃれ】であったのだろう。

東京都町田市鶴川の武相荘の門
東京都町田市鶴川の武相荘の門(写真=Tsurukko/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

日本人ではじめてジーンズを穿いた男

戦時下においてビジネスマンの自分に出る幕はなく、時節到来を待ったともされる。乱にいて、あわてず騒がず。泰然と過ごすところに人間の器が見て取れる。白洲は畑仕事に精を出す。

そして1945年8月15日、日本は終戦を迎え、白洲は請われて歴史の表舞台に登場する。見識、語学力、国際感覚を買われてのことだったが、有能であることに加え、その度胸が買われたのだろう。敗戦から3カ月後の同年12月、当時、外務大臣だった吉田茂の片腕――終戦連絡中央事務局参与に就任。GHQとの交渉の窓口役になるのは前述したとおりだ。

終戦から6年が経った1951年9月、白洲次郎はサンフランシスコ講和条約の会議に全権団顧問として随行する。講和条約の締結によって連合国との間で戦争状態が終わり、日本が被占領状態からの独立を承認されることになる。日本にとって歴史の大きなターニングポイントであった。

当時はまだプロペラ機で、ハワイでの給油や整備、乗員交代などを含め、アメリカまで30数時間の長旅だった。白洲は機内でジーンズに着替える。

長身のイケメンによく似合い、「日本人ではじめてジーンズを穿いた男」とのちに語られることになる。