「母親を楽にしたい」その想いから、織機の改良開発をはじめた佐吉。そこに「自働化」の起源があった。

小学校卒の豊田佐吉が発明王になるまで

小学校しか出ていない佐吉の発明のやり方は学者、研究者とはかなり違っていた。人から直接教わったり、文献を研究するのではなく、実際に機械の動きを見ることだった。ひたすら、機械の動きを眺めて、その後はじっと考える。誰かのアイデアを真似したのではなく、すべて自分で考えた。

彼には教師も仲間もいたわけではないから、その方法しかなかったとも言える。

1890年、東京の上野で第三回内国勧業博覧会が開かれた。そこには外国製織機の他、国産の織機、紡機などの機械が並んでいた。23歳になっていた佐吉は上京し、15日間も博覧会に通い続けた。そして博覧会会場の機械館でひたすら機械の動きを見つめたのである。実家へ帰る途中には、東京、川崎、横浜の工場に飛び込み見学をして、運転中の機械のメカニズムを見て学んだ。

うちに帰ったら、父親の手伝いもせず、「トヨタ最初期の研究施設」である納屋の天井間にこもって、ひたすら考えた。

当時のこと、そして、発明の方法について、佐吉は次のように言っている。「顧問もなければ、助手も無い。単独孤立、別に特別の研究室を持つでも無く、参考資料を左右に置くでも無く、自宅の居室が研究室であり、事務室である。訪れる人もなければ、人を呼ばうともしない。只朝から晩まで幾日も続いて天井の裏を眺め、畳の表を見詰めて、静に考案に耽り、斯くの如くにして、其の百十余の特許を自分の頭から生み出されたのじゃ。」(『豊田佐吉翁に聴く』)

独創的な発明とは結局、このやり方しかないのかもしれない。数多くの資料や文献を集めて読み込むと、どこか似通ったものになってしまう。独創とはひとりで考えて生み出すものだ。佐吉は腕を組み、天井の裏に視線を送りながら、頭のなかでは織機の機構を考えていた。そして、同じ年、佐吉は豊田式木製人力織機を発明、特許申請した。むっつり佐吉と呼ばれ、大工の手伝いをしていた自称、発明家が人の役に立つ織機を作ったのだった。

1933年、イギリスの産業に勝つ

佐吉が織機の発明、改良に励んだ時期は明治の後半から、大正、昭和にかけてだった。「お国の為に」と彼が思いつめたのは、日本の財政を支える主要輸出品の筆頭が綿布だったからだ。

そこで豊田佐吉は織機と綿布を量産した。どちらも世界で通用する製品にした。世界のどこでも通用する量産品にするには生産システムが必要だった。

トヨタ生産方式の萌芽が織機製造時代に生まれたのは量産品を作ったからだ。量産がトヨタ生産方式のキーワードだ。

(イラストレーション=浅妻健司 撮影=本誌編集部)

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