「自働化」とは百パーセント良品の追求だ
豊田佐吉は「大工の子」として生まれた。小学校を出たらすぐに親の仕事を手伝った。機械の理論など知らず、織機を眺めて、あとは自分の頭で考えた。そして、発明した自動織機は欧米製品の真似ではなかった。それまでの織機はもっぱら性能の向上、動力のパワーアップを目指したが、佐吉の自動織機は「自働化」が特長だ。不良品が出そうになったら自動停止する。だからといって品質面のハードルを下げることはなかった。経糸を緊張させる装置などを組み込んで、織りムラがないようにした。
宮城県栗原市にある千葉孝機業場は明治時代から伝わる特産の綿織物、若柳地織の織元だ。同社で稼働しているのは豊田佐吉が作った豊田式鉄製小幅動力織機(Y式 1915年製)である。100年以上、同社が、Y式を使ってきたのは佐吉の織機は独特の風合いと肌触りを織りだすからだという。つまり、佐吉の織機がベストセラーになったのは品質のいい綿織物を織るだけではなく、独特の風合いと肌触りという特色があったからだ。佐吉の織機が「市場を支配した」(引用元:『豊田佐吉』吉川弘文館)のは、できあがった布が独特の風合いを持ち、またその品質の良さや価格の安さによって人気があったからだ。
重要なのは佐吉が絶え間なく改良(カイゼン)したことだ。当初は木製の安価な織機を作った。それは手織りの仕事をしていた人たちに向けたものだった。家内制手工業の人たちに電力を使う大型自動織機を売ろうと思っても購入することはない。最初は故障しない安価な織機を普及させる。次に動力を使ったやや大きな自動織機にする。そして、最後はG型自動織機を発明する。佐吉は段階を追って織機をマーケットに送り込んでいった。日本の工業化の進展を見据えながら発明したのである。
明治期、鐘紡の取締役兼監督技師だった高辻奈良造は佐吉の長期的視点に驚いている。「氏(豊田佐吉)のあたまはいつまでも木製などにのみ齷齪しているのではなく、疾くにこの直後に必要ありとして起りきたるべき鉄製小幅織機の考案とその製作に関る方寸はちゃんとできあがっており、尚その次の広幅鉄製にも相当考えをつけておられ、そして実に驚いた事には、またその次の自動織機に対する覚悟もまたできている事が判ったのであった。
そもそもこの時代には自動織機などというものは余り広く知られているものではないのであるに早くもこれに関する発明考案を企図するなどは実に偉大なる明智といわざるを得ぬ」(引用元:『豊田佐吉』吉川弘文館)
マーケットを見て、さらに世の中の技術の進歩に合わせた発明家が佐吉だ。彼の発明は真似ではなかった。海外の織機の進歩の過程は性能の向上だった。高速機械を作ることとも言える。しかし、佐吉は良品追求と故障のない機械を目指した。高速に織ることができる機械でも不良品が出たり、また故障が多ければ生産性は落ちる。紡織会社は困る。佐吉は買った人が喜ぶ機械を作りたかった。
彼は自分の作品を作ることに専心するアーティストではない。客の懐具合、納入した織機の置き場所まで考えて発明した。電気が普及していないときに電力のいる自動織機を発明しても使う人がいない。佐吉は織機を買う客を見て、一緒に成長しようと思った。
佐吉は世の大勢の意見より、客を見たのである。客の求めに応じた織機を作った。世の中のことは現地現物で感じ取った。
同じ考えで車をつくっているのが曽孫の豊田章男だ。EUがバッテリーEVの偏重に舵を切った時、「どんな車を買うかを決めるのはお客さまだ」と言い切った。積雪地帯、低温地帯など、世界にはバッテリーEVが向かない場所がある。また、充電設備がない地域もある。バッテリーが切れてしまったら、車のなかで凍えるばかりだ。命にもかかわる。
豊田章男が選択肢を絞らないと言い切ったのは「客を見て製品を作る」という佐吉以来の考えを継承しているからだ。佐吉の遺題とは「客を見て、いい製品を作れ」ということなのだろう。自働化とは単に不良品を出さないためのくふうではない。流行っているからといってすぐ真似をしないこと、そして、客を見て考えることだ。つまり、一にも二にも、人間を尊重する思想である。
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