経営危機を救ったハイドラフト精紡機のヒット
喜一郎が自動車製造実現の後押しをしたのは1930年の新製品開発の成功だった。
プラット社との交渉を終えて帰国した1930年、日本は昭和恐慌のなかにあった。前年の世界恐慌の影響で生糸、綿製品、雑貨といった日本の輸出品が売れなくなった。国内の景気は低迷し、輸出産業の紡績業、綿製品工場は苦境に陥った。豊田紡織では労働争議が起き、人員整理をするしかなかった。
紡織産業に織機を販売していた豊田自動織機製作所も業績が悪化した。同社の織機販売台数は1929年が4004台で、翌30年は1992台である。うち国内向けは2590台から859台と3分の1になった。もし、現在、トヨタの車の販売台数が1年で3分の1になったら大変なことになる。喜一郎はまさにそうした危機的状況に直面した。
だが、彼は短時日で危機を乗り切った。喜一郎は従来製品の織機ではなく綿糸を作るための高性能精紡機(紡績機の一種)の開発を指示したのである。織布の会社はG型織機のような高性能でかつ不良品を出さない織機を導入すれば生産性を向上させ、コストを抑えた製品を作ることができる。だが、糸の品質がよくなければいい布はできない。良品廉価を追求するには原材料となる糸の品質を高めることしかない。そこで、喜一郎は1929年にハイドラフト精紡機の開発を始め、1931年に完成し、発売した。織機作りでは世界一だが、紡績機は織機とは別種の機械である。それでも織機作りで培った技術を駆使したハイドラフト精紡機は、それまでのものより綿糸を引き延ばす(ドラフト)工程を短縮し、しかも品質も上だった。
さらに、喜一郎のハイドラフト精紡機には利点があった。G型自動織機を組み合わせて稼働させたら、原綿から綿布までを一貫生産することができた。流れ作業化して、しかもジャスト・イン・タイムの生産ができた。短時間で良品を増産することのできる機械だったのである。
ハイドラフト精紡機ができた年、さっそく大量に導入した会社があった。富山県の呉羽紡績である。社長は伊藤忠兵衛(二代目)。伊藤忠、丸紅という2社の繊維商社のオーナー社長だった。経緯は次のとおりだ。
「当時、業界で注目されていたハイドラフト精紡機と豊田佐吉翁の開発による自動織機を全面的に取り入れてみようと(設立した)。当時は不況のどん底で新規事業を起こすような時期ではなかった。」(『伊藤忠商事100年』同社社史)
伊藤忠兵衛は不況を乗り切るには打って出ることだと考え、周囲の反対を押し切って富山県の呉羽村に紡績と織布の会社を設立。そこには安価な電力と女性の労働力があった。また、彼は故障の少ない精紡機、織機を探した。呉羽村で機械が故障しても直す技師はいない。そこで精紡機を多数、G型自動織機を1000台、導入したのである。一貫生産でコストを下げた結果、2年目には配当を出せるほどになり、数年かからずに「十大紡」という当時のトップ企業のひとつになった。
豊田自動織機製作所にとってもハイドラフト精紡機という新製品は大きな成果だった。
紡績だけの会社に対しては新型の精紡機を売ることができた。また、G型自動織機を持っている顧客に対して「高性能の精紡機ができました。組み合わせて使うとリードタイムが短くなります」と営業することができた。
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