ドラマでスルーされそうな「神戸の生活」
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」。小泉八雲の人生を改めて考える機会を与えてくれた物語も残りわずか。トキ(髙石あかり)とヘブン(トミー・バストウ)も子供を授かり幸せな物語もまとめに入っている……。
でも、実際の八雲とセツの人生は、まだまだ長い。
なにしろ、長男・一雄が誕生した翌1894年に八雲は熊本の職を辞して神戸へ。英字新聞神戸クロニクル社に就職し再び新聞記者となる。その後、1896年に東京に移って東京帝国大学の英語講師に。1904年に死去するまで、まだ10年以上。その間の人生の濃さも考えると、果たしてどこまで描けるのか。
そして、今後のあらすじなどを読むと、スルーされそうなのが神戸での生活だ。
なので、今回はその神戸での生活がどのようなものだったかを改めて語ってみたい。スルーされるということは、熊本以上に八雲にとって得るもののない期間だったのか?
八雲が熊本での教師の仕事を辞めた理由は、熊本の土地や官僚的な学校に嫌気がさしたからだけでは説明しづらい。なにしろ、この転職はセツや家族にしてみれば不安になるものだ。というのも神戸クロニクル社の月俸は100円。そう、熊本では月に200円だったのが、松江時代に逆戻りである。もちろん生活ができない金額ではないにしても、あいもかわらず支えなければならない家族は多いわけで不安になるものだったろう。
「統計的な寿命」44歳を迎えた八雲の焦り
それでも、八雲が神戸で転職することを決めたのは、彼の年齢である。
この時、八雲は44歳。厚生労働省の資料によれば当時の日本の男性の平均寿命は42歳ほどにすぎない。つまり、神戸に移った年、八雲はまさにその「統計的な寿命」を生きていた。当時は乳幼児死亡率が高かったとはいえ、44歳となれば人生の残りを意識したかもしれない年齢だ。彼は、産まれたばかりの子供を抱えつつも、焦りを感じざるを得なかったのだ。
アメリカの親友であるエルウッド・ヘンドリックに宛てた書簡では、この年齢ゆえの焦りを正直に書いている。
(『小泉八雲全集』第11巻、第一書房、1931年)
ヘンドリックに宛てた書簡の中で、八雲はくだらぬ雑談で時間が取られるとか、結婚しているのに女遊びをしたり、カードゲームに興じることとか、あらゆる時間の浪費を糾弾している。それはあたかも自分を戒めているようである。


