小説『夫婦善哉』で知られる無頼派の作家オダサクこと織田作之助。しかし、彼が33歳で早世したとき“内縁の妻”が看取ったことはあまり知られていない。のちにバーのマダムとして有名になるが、心にはずっと作之助への思いを抱えて生きた織田昭子(ペンネーム)の生涯を文筆家の平山亜佐子さんが追った――。
織田作之助、1945年頃
織田作之助、1945年頃、『昭和史 第13巻』(毎日新聞社)より(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

女優となり舞台で作之助と出会う

第3回:織田昭子[1922(大正11)年~2004(平成16)年]

太宰治、坂口安吾と並んで「戦後無頼派作家」とよばれた織田作之助。その内縁の妻で、織田昭子という女性がいた。ふたりの生活は足掛け4年、実質1年4カ月ながら、ヒロポンと酒と女と執筆に溺れる作之助を支え続け、最期を看取った。その後はバーのマダムとして生き、ベストセラーを世に送り出しながら、作之助の名を後世に残すことへ人生を注いだ。誰かを愛した時間そのものを、自らの生の軸に変えて生き抜いた、稀有な女性である。

昭子の本名は輪島昭子。1922(大正11)年12月9日、東京・木挽町四丁目(現・東銀座)に生まれた。小学校卒業後、東京市立第一高等女学校に進学。4年生のとき新協劇団に入団したが、戦時中に幹部俳優らが検挙されて公演が中止となり、日活多摩川撮影所のニューフェイスとして採用された。芸名は築地燦子つきじあきことなった。その後、映画や舞台に出演しながら、父の死後は写真モデルや帽子屋のマネキンなど家計を助ける仕事もこなした。

1943(昭和18)年、織田作之助原作の舞台「わが町」で四人姉妹の末妹の役をもらった。ここで昭子は原作者の織田作之助と運命的に出会う。

作之助からの強引なアプローチ

作之助は1913(大正2)年、大阪天王寺区の仕出し屋の長男として生まれた。猛勉強の末に第三高等学校(現・京都大学)に入学したものの出席日数不足で退学し、大阪に戻って同人雑誌を創刊、のちに「夕刊大阪」への時代小説連載や『夫婦善哉』の発表で作家として立った。女給だった宮田一枝と結婚していたが、1944(昭和19)年8月6日、一枝はわずか32歳で子宮がんで亡くなる。昭子と出会ったのはその数カ月前だった。

自作「わが町」の稽古場に現れた作之助は、楽屋着の派手な浴衣を着て客席に座っている昭子の視線とぶつかった。後に小説『夜の構図』のなかで「主役の女優よりも溌溂とした魅力があり、何よりも睫毛が長い」と書いている。作之助は公演が始まっても帰阪せず、舞台裏、楽屋、廊下とさまざまな場所に現れた。

あるとき、緞帳どんちょうが開く前の舞台の上で「今夜とれたら、トニイ(喫茶店)へ来へんか」と昭子を誘い、「来へんかったらここからのけへんぜ」と退かない。昭子は慌てて「行きます、行きますよって、のいてください」と言うしかなかった。文学少女ではなかったので作之助のファンでもなく、その強引さに腹が立った。