作之助は33歳で死去、昭子は…

知らせを受けた長姉のタツと次姉の千代は、すぐに大阪から病院に駆け付け、翌日夜の通夜と火葬の手配をした。昭子はただ呆然としていた。周囲がヒソヒソと昭子の話をし、姉が「女房なんかでは、オマヘン」と語っているのが聞こえた。

精進落としの席で、次姉の千代が作之助の旧友・青山光二に言った。昭子は「嫁でもなんでもおまへん。赤の他人の、ただのオンナだす」。印税を含めて一銭も渡したくないということだろうと青山は推測した。

その席には太宰治や林芙美子の顔も見えた。青山が姉たちに促されて立ち上がり姉妹の功労をまくし立てたところで、太宰が止めた。太宰は昭子の方を振り向きながら「この人のことは、ぼくたちが引きうけようじゃないか」と言った。林芙美子は席が終わった後、「あんたたち、何てこと云うのよッ」と怒り出し、「あの子は、わたしの所へころがりこんでくるね」「女の気持ちがわからないのよ。寄るべない女の気持ちが……」と確信にみちた言葉を投げた。

林芙美子
林芙美子、1949年4月、『新潮日本文学アルバム 34』(新潮社)より(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

銀座のバーのマダムとして有名に

大阪で改めて葬式をした後、昭子はしばらくタツの家にいたが、百カ日の法要が済んだところで法律事務所に連れていかれた。すでに用意されていた書類には、作之助が昭子のために買った京都の家以外の一切の権利を放棄するとあった。昭子は黙ってサインした。

結局、林芙美子の予言どおり、彼女のもとに駆け込み、そこで1年半を過ごした昭子は、やがて大阪・道頓堀でマダム業を始め、1950年代には新宿でバー「ととや」、のちに銀座にバー「アリババ」を開いた。1956年には著書『マダム』(三笠書房)を出版。すると、16万部を突破するベストセラーとなり、映画化もされた。