社主のイギリス人とは気が合った
とにかく八雲の中では、自分が見聞きして考えた日本をどのような形で作品に残すのか。そして、残された時間でどれだけのものを書くことができるか焦っていた。
その、最低限の書く時間をつくるのに、神戸での仕事は最適だった。なにより、新しい勤め先の社主であるイギリス人のロバート・ヤングとは気が合った。西田千太郎に送った書簡でも、このように記している。
(『小泉八雲全集』第11巻、第一書房、1931年)
ただし、この手紙は熊本から神戸に移って間もない1894年10月に送ったものである。これを受けとった西田は「またか」と思ったのではなかろうか。というのも、八雲は熊本に移った際も、最初は同僚の素晴らしさとか、生徒の熱心さを喜ぶような手紙を送っていたのに、次第に雲行きが怪しくなっていったのだ。
(参考:「セツとの散歩」だけが救いだった…「ばけばけ」では描きづらい、小泉八雲が熊本で味わった“3年間の孤立”)
いずれにしても、神戸が熊本よりマシなのは事実だったようだ。なにしろ、八雲は最後は熊本に恨み骨髄だったのか。1894年10月23日の西田への手紙には「私が官立学校に奉職中被った極悪非道の待遇」とまで書いているほどである。
「印税」をきっかけに2カ月あまりで退職
いや、たしかに熊本の土地は八雲には合わなかったし、同僚にも恵まれなかったかもしれない。とはいえ、月に200円もの高給を数年に渡って与えてくれた仕事である。にもかかわらず、怒りを隠さないのは八雲の正直すぎるところだ。
でも、そんな気持ちを率直に語る八雲だからこそ、熱心に日本を理解しようとしてくれるのだと西田も考えていたのではないだろうか。
だが、そんな好待遇にもかかわらず、八雲はこの新聞社をあっという間に辞めている。八雲の仕事は論説記事の執筆だったのだが、これを辿って行くと最初の記事は1894年10月11日付、最後の記事は同年の12月14日付である。おりしも日清戦争の最中(1894年8月〜)だったこともあり、論説の多くは中国問題が占めるが、さらに移民や神道、体格の問題など、八雲は実に自由なテーマで記事を書いている。
だというのに、勤めた期間はわずかに2カ月あまり。あまりにも、辞めるのが早い、早すぎる。
このあまりにも早い退社をみると、またぞろ社主と一悶着あったのかと疑ってしまう。西田の手紙からは、眼病が悪化して不安になったことも記されているので、健康を害したのかと思いきや、これも違う。
八雲に会社勤めをやめるきっかけを与えたのは、ズバリ、印税である。
