なぜ荒木村重は織田信長に対し謀反を起こしたのか。歴史学者の渡邊大門氏は「反信長に燃える足利義昭、そして毛利方の熱心な説得、さらに本願寺からの保障があった」という――。(第1回)

※本稿は、渡邊大門『信長包囲網の真相』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

落合芳幾作「太平記英勇伝」「三十八」「荒木摂津守村重」
落合芳幾作「太平記英勇伝」「三十八」「荒木摂津守村重」(写真=東京都立図書館/PD-Japan/Wikimedia Commons

破格の処遇で繋ぎとめた

信長は、村重に摂津国一職、つまり摂津国の支配権を与えたのである。信長は義昭や本願寺による信長包囲網により、畿内における影響力が低下していた。

そこで、才覚がある村重を自陣に繋ぎとめるため、破格の処遇をしたのである。こうして村重は、織田家中において重きを置かれた。

村重は伊丹城(兵庫県伊丹市/有岡城)を本拠とし、摂津支配を行うことにした。これまで摂津国における支配拠点は、池田城、越水こしみず城(同西宮市)、芥川城(大阪府高槻市)だったが、平城だった伊丹城の利便性に着目したのである。

その後、伊丹城は有岡城と名称を改められた。天正3年(1575)から有岡城の改修工事が行われ、2年後には完成した。有岡城は、惣構そうがまえを備えた城として変貌を遂げたのである。

信長に重用された村重は、その命に応じて各地を転戦した。天正3年(1575)になると、中国方面の攻略を任されることになった。それは、備前の浦上宗景をめぐるものだった。