“目の上のたんこぶ”だった本願寺

天正元年(1573)、信長は宗景を懐柔すべく、播磨・備前・美作の支配を認める朱印状を与えると、翌年、宇喜多直家は毛利氏と結び、宗景と抗争を繰り広げた。宗景は天正3年(1575)に直家との戦いに敗れ、天神山城(岡山県和気町)から放逐された。宗景の敗北により、信長は中国方面への対応が必要になったのである。

その第一歩として、信長は村重に播磨国の国人を味方に引き入れ、さらに人質を徴集するよう命じた。村重の奔走により、赤松広貞、別所長治・小寺政職まさもとら有力者が信長に従うことになった。村重が政職の取次になったこともあり、政職は有岡城に人質を供出した。

天正6年(1578)に村重が信長に兵を挙げると、政職がこれに呼応した。2人の関係は、取次の役割を通して強固なものになったのである。