“目の上のたんこぶ”だった本願寺
天正元年(1573)、信長は宗景を懐柔すべく、播磨・備前・美作の支配を認める朱印状を与えると、翌年、宇喜多直家は毛利氏と結び、宗景と抗争を繰り広げた。宗景は天正3年(1575)に直家との戦いに敗れ、天神山城(岡山県和気町)から放逐された。宗景の敗北により、信長は中国方面への対応が必要になったのである。
その第一歩として、信長は村重に播磨国の国人を味方に引き入れ、さらに人質を徴集するよう命じた。村重の奔走により、赤松広貞、別所長治・小寺政職ら有力者が信長に従うことになった。村重が政職の取次になったこともあり、政職は有岡城に人質を供出した。
天正6年(1578)に村重が信長に兵を挙げると、政職がこれに呼応した。2人の関係は、取次の役割を通して強固なものになったのである。
数年来、信長が対応に苦慮していたのが本願寺であり、村重はほかの諸将とともに出陣することになった。天正4年(1576)5月、塙(原田)直政が大坂本願寺攻めに失敗して戦死すると、信長は大坂本願寺への総攻撃を計画し、村重に先鋒を務めるよう命じた。
不満だった秀吉の配下
ところが、村重は木津川口(大阪市)の守備に専念する旨を伝え、信長の命に応じなかった。信長は大坂本願寺を攻撃したが、結局は落とすことができず、かえって自身も負傷したので兵を引いたのである。
信長は佐久間信盛を起用し、大坂本願寺攻めを続行した。同年8月、信盛は村重に大坂本願寺周辺の刈田(敵方の農作物を不法に刈り取ること)をするよう命じた。
天正5年(1577)10月、信長は羽柴(豊臣)秀吉に中国計略を命じた。これまで中国計略は村重に任されていたので、交代したということになろう。この交代劇により、村重は秀吉の与力として従うことになったので、大いに落胆したといわれている。
秀吉は政職配下の小寺(黒田)孝高を与力とし、その居城である姫路城(兵庫県姫路市)を拠点とした。同年12月、秀吉は毛利方に与した赤松政範が籠る上月城(同佐用町)を攻め落とし、尼子勝久とその家臣・山中鹿介に守備を任せたのである。天正6年(1578)2月、三木城(兵庫県三木市)主の別所長治が織田方から離反し、毛利方に与した。
