信じがたい謀反の理由

同年4月、毛利氏が上月城を奪還すべく攻囲すると、その3カ月後に落としたのである。長治の離反は想定外のことで、しかも上月城が落城したのだから、秀吉はたちまち苦境に陥った。

上月城跡
上月城跡(写真=Reggaeman/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

天正6年(1578)10月21日、村重が謀反を起こしたとの情報が信長のもとに届いた。驚いた信長は松井有閑、万見重元まんみしげもとに加え、村次(村重の子)の義父・明智光秀を村重のもとに派遣し、翻意を促そうとした。村重は謀反を事実無根としたが、信長の求めに応じて安土城(滋賀県近江八幡市)に出頭することはなかった。

その後、信長は秀吉も送り込み、懸命に村重の説得を続けたが無駄だった。信長は村重・村次父子に書状を送り、天下の面目を失ったと非難する一方、早く出頭するよう求めた。

村重が信長に謀反を起こした理由については、諸書に書かれている。天正5年(1577)に信長が岡崎(愛知県岡崎市)に行ったとき、村重は城門の側に立っていた。

すると、長谷川秀一ひでかずが2階から村重に小便を引っ掛けたという。

苦し紛れの「苦しからず」

近くで見ていた人が村重にその旨を告げると、村重は「苦しからず」とだけ言い、その場を立ち去ったという。この話は『当代記』に書かれ、村重が反旗を翻した理由として挙げられているが、あまりに荒唐無稽で信用することができない。

ほかにも説がある。信長が大坂本願寺を攻撃した際、村重の従兄弟とされる中川清秀の配下の者が、同寺に備蓄された兵糧が少ないことを知った。そこで、密かに小船に兵糧を積むと、人目に付きにくい夜になって売ったというのである。

この事実は信長に報告されたが、村重はまったく知らなかった。追い詰められた村重は、このままでは信長に討たれると思い、有岡城に籠って反旗を翻したという。この説は『陰徳太平記』に書かれているが、清秀が兵糧を横流ししたという裏付け史料がないので、とても信を置くことはできない。

では、村重が信長に反旗を翻した理由は、どのように考えるべきなのか。当時の信長は本願寺だけではなく、各地で反信長勢力と戦っていた。