反信長派の説得に応じた
反信長の頭目は関係が決裂した足利義昭であり、中国地方最大の大名である毛利輝元と結託していた。義昭は信長を倒すため、連日のように味方になるよう各地の大名に書状を送っていた。村重も書状を送られた一人である。
天正6年(1578)10月14日、義昭配下の小林家孝は小早川隆景らに対して、村重の調略に成功した旨を伝えた。つまり、義昭は村重に対して、味方になるよう説得を行っていたのである。
同じ頃、吉川元春も古志重信に対し、村重や五畿内の国衆を調略するよう命じていた。村重は義昭だけではなく、毛利方の熱心な説得もあったので、信長を裏切ったということになろう。
もう少し、謀反の背景について考えてみよう。一つのカギとなるのは、天正6年(1578)10月17日付の顕如書状(荒木村重・村次宛)である(「京都大学総合博物館所蔵古文書集」)。この書状は、3カ条にわたって書かれているので、順に確認することにしよう。
まず1カ条目である。本願寺は村重が味方になるうえは、互いによく話し合って良好な関係を築くこととし、もし信長が死んで世の中が変わろうとも、これまでどおり村重を見放すことはないと約束した。
摂津支配の確約に成功
次に2カ条目である。本願寺は村重の知行について異議がないとし、そのうえで百姓が居つくのは守護(村重)次第であり、本願寺は関与しないとしたのである。
最後に3カ条目である。本願寺は、摂津は言うに及ばず、望みの国があれば、知行方については決定権がないが、村重が義昭や輝元に忠節を尽くしているので、意向に沿って交渉する旨を伝えた。そして、村重に敵対する牢人について、本願寺は許容しないと述べたのである。
この史料に関しては、信長の配下にあった村重が百姓支配に不安を感じていたこと、村重に反発する牢人が本願寺と結びかねない危機的な状況にあったと指摘されている。つまり、村重が信長に反旗を翻した理由は、摂津支配が不安定だったということになろう。果たして、この見解をどう評価すべきだろうか。
これまで、村重の摂津支配は信長によって認められたが、村重が信長から離反したので、その後も摂津支配が継続できるかが問題となった。そこで、村重は保証を求めるべく、本願寺に起請文の提出を求めたと考えられる。
