松永久秀とはどんな武将だったのか。歴史学者の渡邊大門氏は「裏切りを重ねた梟雄というイメージがあるが、実際は優れた政治判断力を持った人物だった。信長に対する謀反も、畿内の複雑な政治環境と密接に結びついていた」という――。(第2回)

※本稿は、渡邊大門『信長包囲網の真相』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

『武者无類外ニ三枚続キ画帖』より「芳年武者无類 弾正忠松永久秀」
『武者无類外ニ三枚続キ画帖』より「芳年武者无類 弾正忠松永久秀」〔写真=国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Art(PD-Japan)/Wikimedia Commons

不満だった順慶の大和支配

松永久秀は信長に降参して以降、その動静が必ずしも明らかではない。天正3年(1575)3月、信長はばん(原田)直政に大和支配を命じた。一方で同年11月から翌年3月にかけて、久通(久秀の嫡男?)は筒井氏に通じていた十市常陸介の十市城(奈良県橿原市)などを攻撃した。

久通は織田方に与していたのだから、一連の攻撃は直政の命令による可能性が高い。松永氏は大和の支配権を失ったが、久通は龍王山城(同天理市)を、久秀は信貴山城をそれぞれ居城とした。

天正4年(1576)5月、久通は大坂本願寺攻めに出陣したが敗北した。一時、久通は戦死したとの噂が流れたので、かなりの苦戦を強いられたのだろう。その際、大和国を支配していた直政が戦死したが、信長は直政の死を悼むどころか、敗戦に激怒して塙一族を捕らえたのである。

直政の戦死後、信長は順慶に大和支配を命じた。かつて久秀は順慶と大和の支配権をめぐって争ったので、内心では複雑な感情を抱いたことだろう。翌年、久秀は信長に兵を挙げるが、このことが最大の要因だったのは疑いないと考えられる。その後の久秀と久通は、佐久間信盛の与力となり、大坂本願寺攻めに動員された。