「平蜘蛛とともに爆死」の真相

『多聞院日記』の記主・多聞院英俊は、あまりの偶然の一致に「奇異の事也」という言葉を漏らした。まさしく、因果応報といえよう。

久秀の最期に関しては、平蜘蛛ひらぐもの茶釡に火薬を詰め、爆死したという話が広く知られている。これまで久秀は信長に名物の茶器を献上していたが、平蜘蛛だけは絶対に渡さないという執念が感じられる。太田牛一の『大かうさまくんきのうち』には、松永父子、妻女、一門が天守に火を掛け、平蜘蛛の茶釡を打ち砕いたうえで焼死したと書かれている。爆死とは書かれていない。

川角三郎右衛門の『川角太閤記』には、久秀の首は鉄砲の火薬で焼き割って、粉々に打ち砕き、それは平蜘蛛の茶釡も同じだったと記されている。17世紀初頭に成立した『老人雑話』にも、同様の話を載せている。

久秀が平蜘蛛の茶釡とともに爆死したというのは、『川角太閤記』や『老人雑話』の記述に基づくものだろう。先述のとおり、久秀らの首は安土城に運ばれたのだから、火薬で粉々に爆破されたわけではない。

なぜ援軍が来なかったのか

久秀の敗因の一つは、本願寺や毛利氏による義昭の上洛作戦が、思ったほど功を奏しなかったことにあろう。謙信も西上の途についたが、加賀で柴田勝家に勝利しながらも、能登の平定を優先して引き返した。何より織田方は信貴山城に直接攻め込んだのだから、彼らの援軍は期待できなかったのである。いずれにしても、久秀の見通しは甘かったといわざるを得ない。

信長は久秀に苦しめられつつも、何とか勝利することができた。しかし、以降も信長に兵を挙げる大名が続出し、戦いは続いたのである。

本章では、松永久秀の動向を通じて、彼がいかにして戦国の動乱の中を生き抜き、最終的に織田信長と決定的に対立するに至ったのかを検討してきた。久秀は出自の明らかでない人物でありながら、三好長慶に仕えることで頭角を現し、やがて大和一国を支配するまでに至った。その歩みは、戦国時代が持つ流動性と、実力によって身分を超え得る時代の特質を象徴するものだったといえる。