信長の使者を追い返した

そこには、雑賀衆が久秀の挙兵に応じて和泉に出陣したこと、本願寺が毛利氏に水軍の派兵を求めたこと、上杉謙信が加賀・能登で勝利したことを伝えた。事実、毛利氏は義昭を上洛させるべく、同年5月に播磨に出陣するなどし、瀬戸内海での制海権の確保を目論んでいた。

久秀の謀反を知った信長は、配下の松井有閑ゆうかんを信貴山城に派遣し、翻意を促そうとした。しかし、久秀の決意は固く、使者の有閑に会おうともしなかったのである。信長による久秀への懐柔策が失敗し、両者は雌雄を決することになった。久秀は織田方を迎え撃つべく、約8000の軍勢とともに信貴山城に籠ったのである。

同年9月、信長は筒井順慶、明智光秀、細川藤孝を信貴山城に遣わした。同年10月、織田方の軍勢が松永方の片岡城(奈良県上牧かんまき町)を攻撃すると、籠っていた森氏らは自害して果てた。

筒井順慶の肖像画
筒井順慶の肖像画(写真=ブレイズマン/伝香寺所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

同日、劣勢に追い込まれた久通も柳本城で自害したというが、その死の経緯については諸説ある。戦いが開始されて間もなく、松永方はたちまち劣勢に追い込まれたのである。

焦土の果てに流れた血

織田方の総大将を務めた織田信忠(信長の嫡男)は、同年10月3日に信貴山城に押し寄せると、たちまち城下を焼き払った。同年10月5日、信長は人質だった久通の息子について、京都市中を引き回しにしたうえ六条河原で処刑した。

2人の息子は、まだ12歳と13歳の子供だった。一説によると、そのうちの1人は松永孫六(久秀の甥)の息子で、まだ14歳だったという。

同年10月10日、攻勢を強めた信忠ら織田方は、信貴山城に夜襲を仕掛けた。これにより観念した久秀は、自害して果てたのである。『多聞院日記』には、久秀が切腹して城に火を放ったと書かれている。

一方、『信長公記』は、久秀が信貴山城の天守に火を掛け、焼死したと記している。こうして久秀は、波乱に富んだ生涯を終えたのである。享年70。その後、久秀らの首は、安土城に運ばれたのである。

ところで、10月10日という日は特別な日でもあった。久秀が自害したちょうど10年前の10月10日は、久秀が三好三人衆と戦い、東大寺大仏が焼失した日だった。しかも、それは同時刻で、翌日に村雨むらさめが降ったことも同じだったという。