泣く泣く多聞山城を破却

久秀にとって、さらにショックだったのは、信長の命により多聞山城が同年6月に破却されたことである。信長は他国を征服すると、軍事施設である城の多くを破却した。不要な城を残しておくと、抵抗勢力の拠点となる可能性があったので、破却されたと推測される。残されたのは、支配拠点となる限られた城だけとなった。

久秀が多聞山城を築いたのは、永禄2年(1559)のことである。多聞山城は平山城で、奈良を支配するための拠点だった。城内は本丸のほか、主殿などの建物が立ち並び、見事な庭園や茶室もあった。室内には、狩野派の絵師による絵画が飾られていた。

一説によると、室町幕府の将軍の居所「花の御所」を真似したともいわれている。薩摩の島津家久が多聞山城を訪問したとき、「楊貴妃ようきひの間」があったことが記録されるなど、中世においては先駆的な城だったと指摘されている。

天正4年(1576)6月以降、多聞山城の破却は粛々と進められ、破却後の建物は京都に移転する計画だった。久通は信長から多聞山城の家壊奉行(城割を担当する奉行)を命じられ、順慶とともに破却の作業を担当した。

安土城のパーツとされた屈辱

多聞山城の4階櫓は、当時、築城中だった信長の居城・安土城(滋賀県近江八幡市)の一部に転用された可能性があるという。こうして同年7月、多聞山城の破却はほぼ終わったのである。

久秀は大和支配の望みを絶たれたことに加え、自らが骨を折って築いた多聞山城も徹底して破却された。この2つの理由により、久秀・久通父子は信長に兵を挙げる決意を固めたと考えられる。

大和の支配権を奪われた久秀・久通親子は佐久間信盛の与力として、大坂本願寺を攻撃すべく、天王寺(大阪市)の付城に詰めていた。ところが、天正5年(1577)8月、久秀・久通親子は突如として織田方から離反し、信貴山城に立て籠った。

むろん、自棄やけになって信長に兵を挙げたわけではない。当時、「信長包囲網」を形成していた、足利義昭、毛利輝元、大坂本願寺などの動きに呼応したものだろう。

久秀の謀反は急に思いついたものではなく、周到に計画されたものだった。久秀没後の同年10月11日、本願寺の坊官・下間頼廉しもつまらいれんが紀伊の雑賀御坊惣中に送った書状により、その全貌が判明する(「鷺森別院文書」)。