泣く泣く多聞山城を破却

久秀にとって、さらにショックだったのは、信長の命により多聞山城が同年6月に破却されたことである。信長は他国を征服すると、軍事施設である城の多くを破却した。不要な城を残しておくと、抵抗勢力の拠点となる可能性があったので、破却されたと推測される。残されたのは、支配拠点となる限られた城だけとなった。

久秀が多聞山城を築いたのは、永禄2年(1559)のことである。多聞山城は平山城で、奈良を支配するための拠点だった。城内は本丸のほか、主殿などの建物が立ち並び、見事な庭園や茶室もあった。室内には、狩野派の絵師による絵画が飾られていた。

一説によると、室町幕府の将軍の居所「花の御所」を真似したともいわれている。薩摩の島津家久が多聞山城を訪問したとき、「楊貴妃ようきひの間」があったことが記録されるなど、中世においては先駆的な城だったと指摘されている。