1575年、武田勝頼は織田・徳川連合軍と長篠の戦いを行い、敗戦する。歴史学者の渡邊大門氏は「小説や映画で描かれるような戦いが行われたかは非常に疑わしい。そもそもこの戦いの実像を示す一次史料は極端に乏しい」という――。(第3回)

※本稿は、渡邊大門『信長包囲網の真相』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

「長篠合戦図屏風」の一部
「長篠合戦図屏風」の一部(写真=徳川美術館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

「三段撃ち」も「騎馬軍団」もなかった

織田・徳川連合軍が向かった場所は、長篠城の手前にある設楽原(愛知県新城市)である。設楽原は平野ではなく、丘陵地が沢や小川に沿って南北に連なっている地形だった。武田方と織田・徳川連合軍は連吾れんご川を挟んで陣を置き、川を自然の堀として防御線を築いた。

織田・徳川連合軍は、丘陵地ゆえに相手陣を奥深くまで見渡せないという地形を利用し、馬防柵ばぼうさくを築くなどして万全の体制を敷いた。なお、武田方の率いた軍勢の数よりも、織田・徳川軍のほうが圧倒的に多かったといわれている。

天正3年(1575)5月21日、長篠の戦いの前哨戦として、鳶ケ巣とびがす山砦(愛知県新城市)において攻防が繰り広げられた。鳶ケ巣山砦は、武田方が長篠城を攻略する際の付城として築かれたものである。

織田・徳川連合軍は奇襲戦で鳶ケ巣山砦を攻略すると、武田方の退路を断つことに成功した。これにより、織田・徳川連合軍が自軍の士気を大いに高め、当初から戦いを有利に進めたのである。

天正3年(1575)5月21日、両軍は長篠の戦いに突入したが、この戦いで避けて通れない問題は、織田・徳川連合軍の軍事革命といわれる戦法である。織田・徳川連合軍は、戦国最強とされた武田氏の騎馬軍団を3000丁もの鉄砲で撃破したと長く語られてきた。