熟練した射手が3000人もいたのか

とりわけ鉄砲の「三段撃ち」は軍事革命と称されてきたが、近年はその評価の見直しが進んでいる。それは、武田の騎馬軍団も同じである。では、この通説はどこに問題があったのか考えてみたい。

鉄砲の「三段撃ち」や武田の騎馬軍団の根拠史料となったのは、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『信長記』(織田信長の一代記)である。その後、参謀本部編『日本戦史 長篠役』(元真社、1903年)がこの説を採った。軍事の専門家である参謀本部の影響力は大きく、「鉄砲の三段撃ち」対「武田の騎馬軍団」という構図は長らく通説とされてきたのである。

しかし、甫庵の『信長記』の内容は、同じ二次史料の太田牛一の『信長公記』を参考とし、おもしろおかしく創作・脚色したものである。

牛一の『信長公記』は二次史料とはいえ、客観性に富んでいるが、甫庵の『信長記』は歴史小説にすぎず、歴史史料としては適さない。したがって、今となっては甫庵の『信長記』を根拠とした、「鉄砲の三段撃ち」や「武田の騎馬軍団」は否定されている。

以下、もう少し「鉄砲の三段撃ち」や「武田の騎馬軍団」について考えてみよう。まず、鉄砲隊が三列に並び、1000丁ずつ交代射撃を行うのは極めて困難だったことが指摘されている。熟練した射手を3000人揃えるのも難しかったに違いない。

馬から降りて戦っていた

また、実際の戦いでは武田の騎馬軍団が突撃したのではなく、下馬して戦った可能性が高いといわれている。別の合戦の例になるが、戦闘の際には馬から降りて戦ったという記録がある。

その一方で、馬上で槍を振るって戦った事例も報告されているが、それは馬で突撃したわけではない。馬は高価で貴重だったので、失うことが懸念されたと考えられる。

その後の研究では反論も示されたが、なかなか決定打が出ていないのが現状である。このように、近年の研究は従来説を鵜呑みにせず、長篠の戦いの実像を丁寧に再検討している。以下、さらに具体的に確認していきたい。

まず、織田方が3000丁もの鉄砲を準備し、1000丁の鉄砲を代わる代わる撃つ「三段撃ち」を行ったのかという点を考えてみたい。

信長は若い頃から橋本一巴いっぱに鉄砲の扱いを学んでおり、鉄砲の重要性を深く理解していた。また、弾の原材料である鉛や、火薬原料の硝石しょうせきを確保するため奔走したことも事実である。