現実的ではない小型馬の馬防柵突破

次に、武田氏の騎馬軍団である。従来は、武田方が騎馬による激しい突撃を繰り返したが、織田・徳川連合軍の3000丁の鉄砲の前に敗れたと説明されてきた。この点についても再検討されている。

当時は兵農未分離であり、武田方の多くの将兵は農業に従事していた。上層家臣を除けば、日常的に騎馬戦の訓練を受ける体制があったとは思えず、大規模な「騎馬軍団」が存在したのか疑問である。

武田勝頼(1546~1582)の肖像画
武田勝頼(1546~1582)の肖像画(部分)(写真=高野山持明院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

また、先述のとおり、当時は馬から降りて戦うのが一般的だったと指摘されている。馬に乗ったまま槍や刀を振るう例はあったが、それは特殊な例だったと考えられる。

馬は耕作にも使われる高価なものであり、安易に死なせるわけにはいかなかった。それゆえ、馬の死傷を避けるため下馬して戦うことが多かったのだろう。

加えて、日本の在来馬は体高120センチ前後の小型馬であり、馬防柵に体当たりして突破するような行動は現実的ではなかった。そもそも馬は臆病な動物であり、本当に馬防柵に体当たりしたのか疑問が残る。

後世に脚色した可能性

映画の1シーンのように、大軍で騎馬が馬防柵に体当たりし、敵をなぎ倒すというイメージは後世の脚色にすぎない可能性が高い。結局、長篠の戦いの実像を示す一次史料は極端に乏しく、二次史料に頼るほかない。

渡邊大門『信長包囲網の真相』(星海社新書)
渡邊大門『信長包囲網の真相』(星海社新書)

史料上の制約があまりに大きいのだが、それはどの合戦を研究するにしても同じである。そのため、近年は史料批判を徹底し、通説を1つずつ検証する作業が進んでいる。

現在では、「鉄砲の三段撃ち」や「武田の騎馬軍団」といった従来のイメージは大幅にトーンダウンしているが、長篠の戦いをめぐる議論は今も続いており、今後の研究成果が注目される。

なお、当時の武将は軍功を挙げるため「抜け駆け」を行うことが多く、武田方でも無謀な突撃が敗因の一つになった可能性も考慮すべきであろう。ともあれ、この問題は今も研究が進んでいる。

参考文献
・太田浩司「国友鉄砲鍛冶の成立 ―編纂物に頼らない歴史構築の試み―」(『銃砲史研究』391号、2020年)
・藤本正行『長篠の戦い 信長の勝因・勝頼の敗因』(洋泉社歴史新書y、2010年)など

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