正確ではない鉄砲の数

永禄11年(1568)の上洛時に堺(大阪府堺市)を掌握しようとしたのは、鉄砲生産を支えるためであったといわれている。織田方の鉄砲の供給源は、国友村(滋賀県長浜市)だったと指摘されている。

信長が鉄砲を国友村に発注したことは、たしかな史料で確認できないが、長篠の戦いで使用した大半の鉄砲が、国友製だったことは否定できないという。いずれにしても、信長が十分な数の鉄砲の供給源を確保していたのは疑いないだろう。

実は、3000丁という鉄砲の数にも疑義が示されている。『信長公記』の写本によっては、鉄砲の数を1000丁と記載するものがある点に注意が必要だろう。

『信長公記』には複数の原本が伝わっており、ほかにも多くの写本が残っている。

いずれが正しいのかは、今後の課題でもある。ただし、1000丁であれ、3000丁であれ、キリのいい数字になっており、正確に数えたものと思えないので疑問が残る。

1キロ先まで号令が聞こえたのか

さらに現実的に考えると、織田方が3000丁を1000丁ずつ3隊に分け、交代射撃を行う訓練を積んでいたのか疑わしい。兵農分離が完全に進んでいない当時にあって、頻繁に集団で軍事教練を行ったとは考え難い。射撃手の技量が一定ではなく、1000人が同時に撃つタイミングを合わせるのは難しかったと考えられる。

そもそもの問題として、1000丁の鉄砲の射撃手が1メートルの間隔を置いて並ぶと、端から端まで1キロメートルになる。指揮者が「撃て!」と号令を掛けたとしても、1キロメートル離れた射撃手まで号令が伝わったのかという素朴な疑問が残る。

いずれにしても、1000丁を同時に射撃するのは、とても困難だっただろう。『信長公記』によれば、鉄砲隊は各部将から兵を集めたもので、1000人に対し5人の指揮者がついたという。

実際には、もっと射撃のタイミングを図る部隊長のような者がいたのではないか。したがって、敵が射程に入った段階で、部隊長が状況を見ながら代わる代わる射撃を指示したと考えるほうが現実的・合理的である。今後の課題となろう。