何がムダでどのようにカイゼンするべきなのか――本質を見誤ると、トヨタ生産方式は機能しない。徹底したカイゼンを実現するためにトヨタに生まれた「自主研」の正体に迫る。

第六章 自主研の存在

大野耐一の下で、トヨタ生産方式の指導の前面に立ったのが鈴村喜久男だ。鈴村は1927年に生まれ、旧制愛知県立工業専門学校(現・名古屋工業大学)を卒業し、戦後の1948年にトヨタに入社している。1960年に入社後、配属された本社工場の部署では現場の作業者をまとめる仕事をしていた。彼が入った当時、作業者はひとつの機械を専門に操る職人だった。旋盤の職人は穴を開けるだけのボール盤作業を格下と見て、「オレがやる仕事じゃない」と手を出さなかったくらいだ。自分が得意とする作業しかやらない専門職人の集まりだったのである。専門職人の給料は高かった。大学卒の若手社員よりも多額で、鈴村は「オレの給料袋とは厚みが違う」と感じた。当時、給与は銀行振り込みではなく、月に一度、封筒に入った現金をもらっていたのである。

トヨタ生産方式の導入初期、単能工を多能工にしていったのは給料の高い専門職人たちの生産性を上げていくことが労務コストを減らすことにつながったからだ。その時、専門職人を説得したのが鈴村だった。彼は仕事が終わった後、ひとりで工場に居残りし、ボール盤、フライス盤、旋盤と複数の工作機械の操作を習得した。そして、職人たちの前で機械を操り、「おまえたちもこうやってくれ」と多能工化を進めていった。