日本国内だけでなく、世界中のモノづくりを変えた「トヨタ生産方式」。カイゼンを続け、ユーザーの求めるものに応え続ける仕事人を描いた連載がはじまる――。
初めに 音階と遺題継承

何度失敗しても立ち上がる。だから成功する――

トヨタは創業時から順調に社業を伸ばしてきた会社ではない。何度も困難に直面し、その都度、苦労をして克服してきた会社だ。

創業後まもなく太平洋戦争が始まった。創業者である豊田喜一郎は、念願の乗用車をつくることができず、軍部の指示で軍用トラックを生産した。戦火が拡大し、トラックの部品調達が困難になると、独自の工夫を重ねて対応するしかなかった。例えば、ラジエーターに使う銅が不足したため鉄板で代用したが、鉄製ラジエーターはすぐに錆び付いた。左右2灯あったヘッドライトも、資材不足から中央の1灯だけに変更した。足りなくなった資材をかき集めてまで軍用トラックを生産せざるをえなかった。

戦後は労働争議が起こり、トヨタは倒産寸前まで追い込まれた。乗用車の生産どころではない。豊田喜一郎は経営責任を取って社長を退任した。

その後、高度経済成長の波に乗って業績はよくなったが、排ガス規制への対応など技術開発では苦心を重ねた。さらに、海外工場の建設、厳しい円高不況、そして地震や水害といった数々の困難にも直面した。だが、そのたびになんとか乗り越えてきた。

2010年には当時、社長の豊田章男がアメリカ下院の公聴会に出席を要請された。トヨタ車の大規模リコール問題を受けてのことだった。当初、豊田章男は出席しないとみられていた。だが、自らの判断で公聴会に出ていき、議員たちから厳しい追及を受けた。それでも彼は逃げなかったし、負けなかった。自ら説明し、自ら責任を果たした。真摯な謝罪と再発防止への決意表明がトヨタを救った。

公聴会の席上、彼はこう言った。

「ご存知のように私は創業者の孫であり、すべてのトヨタ車に私の名前がついています。私にとって車が傷つくことは私自身が傷つくことです。私は誰よりもトヨタ車が安全であることを望み、ユーザーがトヨタ車を使う際に安全を感じてほしいと思っています」

大規模リコール問題が収束した後も、豊田章男は公聴会での経験を深く胸に刻んだ。その経験は「もっといいクルマをつくろう」という決意、その後の全社的な取り組みにつながっている。

そして、EUが主導してバッテリーEVへの移行が推奨されたときも、彼は逃げなかった。逆風の中で「敵は炭素」を貫き、トヨタ車に多くの選択肢を用意した。結果として、EV市場が減速する中で、マルチパスウェイによって商品をつくっていたトヨタが後れを取ることはなかった。電動化への多様な道筋を持つことで、変化する市場に対応し、競争力を維持したのである。

直近のこと、トランプ米大統領が導入した輸入車や自動車部品に対して高い関税を課したときも、トヨタは動揺しなかった。慌てて駆け込み輸出や現地工場の新設を検討する同業他社はあった。だが、トヨタに焦る様子はなかった。ただちに販売価格を値上げするようなことはせず、原価の低減に取り組むと表明した。