- 【第1回】「お前がどんなに仕事で偉くなっても褒めてあげられない」上京する村木厚子さんの人生を支えた父親の言葉
- 【第2回】だから後輩たちにこれだけは伝えたい…村木厚子さんが子育てについて後悔しているたった一つのこと
人生は決断の連続。就職や転職、さらには結婚、子育てなど、さまざまな局面で選択を迫られます。時には深く悩み、逡巡することもあるでしょう。
充実したキャリア、人生を歩んでいるように見える先人たちも、かつては同じような岐路に立ち、悩みながら決断を下してきました。そこに至るまでに、どんなプロセスがあったのでしょうか。また、その選択は、その後のキャリアにどんな影響を及ぼしたのでしょうか。
そんな「人生の決断」について、村木厚子さんが振り返ります。村木さんは1978年に労働省(現・厚生労働省)に入省して以来、女性政策や障がい者政策に携わり続け、国家公務員として37年間勤め上げました。
40代で初めて課長になり、最終的には官僚のトップである事務次官に昇進。上がり続けるポストに重圧や力不足を感じつつも、全力で職責を全うしてきたといいます。キャリアの最終盤に差し掛かった50代では、誤認逮捕によって約半年にわたり勾留されたことも。激動の40代・50代に、村木さんは何を考え、どのような決断をしてきたのでしょうか。
3回目にフォーカスするのは、「40代・50代の決断」です。
41歳での課長昇進。同時に芽生えた「いつでも辞められる覚悟」
41歳で障害者雇用対策課の課長になった時、ふと思ったことがあります。それは「もう組織や上司のせいにできない」ということ。組織にいると、自分の意に沿わないことも多いですし、あってはならないことですが、時には不正に加担させられそうになることもあるかもしれません。そんな時に「自分はやりたくなかったけど、上司に言われたから仕方なかった」「自分ではなく会社が悪い」と言っていいのは、管理職になるまでだと思います。
それなりのポストを得て誰かをマネジメントする立場になったら、上司や組織のせいにしてはいけない。本当にそれをやりたくない、やってはいけないと思うなら、きっぱりと断る。場合によっては辞職する覚悟を持たなくてはいけないだろうと。
そう考えると、何かあった時にすぐ辞表を提出し、組織から身を引ける状態をつくっておく必要がありました。
当時、私たち家族は国家公務員宿舎で暮らしていましたが、ここに住んでいたら辞めたいと思った時に素早く行動できません。辞表を出したのに、(引っ越しまでの間)しばらくここに住まわせてくださいとは言えませんから。そこで住宅を購入し、すぐに引っ越しました。
また、同じく国家公務員の同期である夫とも、改めてお互いの意思を確認しました。私たち夫婦は、性格や考え方が似ています。どうしても許せないことがあった時に、自分を殺してまでそこに留まり続けることが難しい性格であることも、お互いに分かっていました。そこで、夫か私のどちらかがどうしても我慢できなくなったら、辞めていいことにしよう。収入は半分になるけど、少なくとも3年くらいは片方が経済的に支えることにしようと約束したんです。実際は夫婦ともども定年まで勤め上げましたが、あの時「どうしても嫌になったら、いつでも組織を去れる状態」をつくっておいたことは、覚悟を持って仕事に向き合ううえで大事なことだったように思います。
とはいえ、私自身は公務員を辞めたあと、どこかに雇ってもらえる自信はまったくありませんでした。当時の公務員は今のように民間企業などでの研修の機会もほぼありませんでしたし、つぶしの利かない仕事だと思っていましたから。
今にして痛感していますが、もっと若い頃から公務員以外の世界も知っておきたかった。海外に留学したり、企業に出向したりして、役所とはまるで違う組織で経験を積んでみたかったです。実際、私は59歳で退官してから初めて民間企業で仕事をするようになりましたが、その年齢になって初めて知ることも少なくありませんでした。



