「家事」とはミッションに対する手段
男の家事力について。
これが編集部からいただいたお題である。
しかしながら、この命題は主語がいささか大きいように思う。「男」といっても、シングルかパートナーありかで、事情は大きく変わるだろうし、そのパートナーや自身の仕事のあり方も大きく影響する。子供の有無も重要なポイントだ。そもそも、「女の家事力」なるものが本来存在するものなのか(あるいは存在すべきものなのか)すら、私には分からない。
であるからして、以下に記すのはあくまでも「私の家事」についてである。これで主語は随分、小さくなった。もちろん、これは私の個人的な見解に過ぎないから、いかなる外的妥当性を主張するものではない。他の男性諸氏に真似をしろと言いたいわけではない。
さて、言い訳がましい前置きはこれくらいにして、本題に入る。
私にとっての「家事」とはミッションに対する手段である。そのミッションとは、自分の奥さんの幸福度を最大化することにある。
なぜ、自分の奥さんの幸福度の最大化がミッションにならねばならないのか。それは、奥さんが眼の前で楽しそうにしていることが、楽しいからだ。苦しそうにしていたり、悲しんでいたら、こちらも苦しいし、悲しい。要はグルっと回って利己主義に戻ってくるわけで、私は自分の幸せの最大化の手段として、奥さんの幸せの最大化を希求するのである。そのために家事はどのように行われるべきか。ミッションから翻って考えれば、あるべき姿は自明である。
わが家にとっての最適解とは
では、何でもかんでもすべての家事をこなせば奥さんは喜ぶかと言えば、もちろんそんなことはない。
やってみれば分かるが、家事は家事でなかなか楽しいものなのだ。仕事の多くが楽しいのと同じである。だから、すべての家事を一人で独占することが最適解なのではない。楽しみは分かち合うのが肝要だ。
もちろん、家事は楽しいばかりではない。仕事の全てが楽しさから構成されているわけではないのと同じである。だから、「楽しさ」を最大化するために、上手な分担は必要だ。
例えば、私は庭仕事が得意ではなく、さして好きでもない。しかし、奥さんは庭が美しい状態でいるのが大好きで、そのために庭仕事に積極的なのだ。この場合、奥さんがメインになって庭仕事をするのがわが家にとっての最適解だ。まあ、人手が足りなくなると、私も水やりや草むしりを手伝うが、クオリティの面では奥さんに数段劣るし、特に炎天下ではしんどいばかりで楽しさはない。が、奥さんがハッピーになるのであれば、このくらいのトレードオフは仕方がない。
炊事はどちらも好きなので、お互いの状況を把握しながらの分担作業となる。例えば、朝食の炊事は私が担当することが多く、その横で奥さんは昼の弁当を作ることが多い。しかし、一方の業務が逼迫して炊事ができないこともあるし、体調がすぐれないときもある。普段は給食の下の娘が、「あ、今日はお弁当の日だった」と朝になって言い出し、普段と異なるスクランブルが発生することもある。チームスポーツがそうであるように、カバーリングはとても大事である。