患者ケアと家事の共通点
大切なのは、常に自分と相手の状況を把握しておき、その状況における最適解を探し続けることだ。これはタイムマネジメントの妙と言ってもよい。私は、医業においても家事においても、そして趣味のサッカーをやっているときでも「最適解はなにか」を探し続けるのが大好きなのである。
パンを焼き、サラダを作り、フルーツをカットし、コーヒーを淹れてテキパキと朝食のセッティングができると気持ちがよい。逆に、突発的なアクシデントに心を奪われ、気づくとパンを焼くのを忘れてしまい、5、6分の時間を無意味にロスしたりするととても悲しい。
突発的なアクシデントも「想定内」にして最適解を見つけ続ける。患者ケアも家事も、この点においてはまったく同じだと思っている。
いくら、頭の中で「最適解」を思い描いていても、技術がこれに追いつかなければ意味がない。「そこにパスすればよい」と判断するのと、思っていたところに正しくボールを蹴る技術は、同居していなければミッションは達成できないのだ。
我流でチャランポランの利点
私の家事における技術の多くは母親から伝授されたものだが、母は私に似て(笑)、ズボラなところがある。多くの技術は我流だったり、チャランポランだったりする。
たいていのカップルはそうだと思うが、「家事の正しさの基準」は各家庭で異なっており、奥さんが考える「常識」と私が思っている「常識」にもズレがある。もちろん、たいていの「正しさ」の主張は客観的な正しさというよりも「私の好み」なのであり、好悪の問題を正邪の問題とすり替えてはならないのだが。
我流でチャランポランなところにもよいことはある。それは「自分の正しさに対する確信」みたいなものが希薄(あるいは皆無)になり、主張しようというインセンティブが生じないことにある。だから私は、「食器はこのように配膳すべし」とか、「みそ汁の味はこうでなくてはならない」といったこだわりがない。よって、たいていのことは相手に合わせることにしている。
私は“極東の裏日本”の山陰の出身であり、究極の「辺境の人」だと自認、自負しているから、自分のオーセンティシティにこだわりを持つことがまずないのだ。よいところに生まれたと思っている。皮肉ではなく。