職場や共同体のパワハラはなぜなくならないのか。感染症医の岩田健太郎さんは「パワハラをする人は、どんな出来事でも自分の偏愛する理論で解釈してしまい、何が起きてもそれを問題として認識することができない」という――。
登庁し、取材に応じる兵庫県の斎藤元彦知事=2024年9月6日午前、県庁
写真提供=共同通信社
登庁し、取材に応じる兵庫県の斎藤元彦知事=2024年9月6日午前、県庁

「パワハラではない」という拒絶への失望

研修医だった何十年も前、私は上級医から厳しく鍛えられた。

それは今の目から見れば「パワハラ」と認定されるようなものだったかもしれないが、教えるほうも教わるほうも、当時はそのような認識がなかった。

指導する立場になり、私も上級医の方法を真似た。それもまた、今の目から見れば「パワハラ」であったと、思い返すに冷や汗がでる。

誤解を恐れずに申し上げるならば、パワハラという現象が過去に存在したこと「そのもの」の問題自体は相対的には大きくない。あくまでも「相対的には」という話であり、決して小さい話なのではないけれども。

より大きな問題は、往時の行為をパワハラと認識し、自らをアップデートし、そして振る舞いを改善できないことである。問題そのものよりも、問題を問題と認識できないほうがより大きな問題なのだ。

「いじめ」にしても「誹謗ひぼう中傷」にしても加害者は「なんでこの程度のことで、みんな怒っているのだろう」と無反省な態度を取りがちだ。だから、問題は解決しないのだ。「自分が若い頃もこうだった」と過去の体験を再生産している限り、いじめも誹謗中傷もパワハラも止まらない。過去の経験を再生産するものか、という断固たる決意と認識が大切なのだ。

私は、兵庫県知事斎藤元彦氏があれをやったこれをやったというエピソード自体よりも、それを咎められた知事本人が、「パワハラではない」と自己認識のアップデートを拒み続けていること自体に大いに失望している。自己認識をアップデートできない人物はリーダーでいる資格はない。

自覚する私と他人が言い当てる私との距離

私は立場性や党派性に興味関心がない。

だから、男社会でふんぞり返るためのトロフィーとして女性を手にしようという気持ちが欠片かけらほどもない。むしろ、愛する女性のためならばそういう「男社会」からドロップアウトすることも上等だといつも考えている。

「偉い人」の歓心を買うために非生産的な会議に参加したり、役に立たなそうな業務を引き受けたりするくらいなら、さっさと帰宅して今夜の夕食の準備をしたい派なのである。

「そんなことはない、お前は女性を男社会のトロフィーとして扱うホモソーシャル野郎だ」と宣言することは誰にでも可能だが、それを証明できる人はいない。

私が私自身の感じ方を十全に理解しているという自信はなく、無意識のうちに感じている、無自覚な感じ方も存在するのであろうが、少なくとも私が何を考え、感じようが、他人がそれを正確に言い当てる可能性は、私の自覚する私の感じ方の正確性よりは、高い保証はない。

私がどのような家事を日々行い、どのように育児に参加しているかをここで述べるつもりはない。それはわれわれ夫婦の間で見いだした最適解であり、関係ない外野に査定されるのは本意ではない。

「その程度の家事で、家事をやったつもりになるな」みたいな誹謗中傷をされるのもまっぴらごめんである。というか、そういうのってモラハラと言わないのだろうか(妻に言えば絶対にそうなる)。