何が起きても心を変えることのない人たち

もちろん、私のような感じ方をする男性は少数派なのかもしれない。しかし、少数派なのだから、そのような存在は無視しても良いというわけでもあるまい。そういう男性は現前するし、特に若い世代では増えてきているように思う。

あるタイプの女性を描写したとき、フェミニストの多くは「それは女性をステレオタイプ化している」と憤慨する。その憤慨は正当なもので、平べったい同じようなタイプの女性しか描写しないのは問題であろう。

であるならば、「男はみんなホモソーシャルな社会で成り上がりたい、ミソジニーな連中なんだ」という意見もやはり、同じロジックで「男をステレオタイプ化」してはいないだろうか。

「過度な一般化」はオールマイティ理論と親和性が高い。オールマイティ理論とは「全てにおいて成立する(オールマイティ)が、それ故に意味のない理論」のことだ。

これはカール・ポパーの言う反証可能性の否定と言い換えてもいいだろう。

1980年代のカール・ポパー
1980年代のカール・ポパー(写真=LSE library/Files from Flickr's 'The Commons'/Wikimedia Commons

ポパーが批判したのは、フロイトやアドラー、マルクスの「献身的追随者」であった。フロイトやアドラー、マルクス自身ではないことがポイントだ。

ポパーによれば、彼らはどんな出来事でも自分の偏愛する理論で解釈してしまい、何が起こっても心を変えることがないのである。

自分が自分の最良の批判的吟味者であれ

この反証不可能性をポパーは批判したのだ。ポパーは、アラン・マスグレーブがマルクス主義を「反証不可能なマルクス主義」と「反証されたマルクス主義」に分けて執筆したことに、そしてマルクス主義の一部は検証可能かつ反証可能で、科学的であることを喜んだと言われている。

そうしてみると、前述の、「男のステレオタイプ化」をし、反証可能性を全否定して、自身の理論のオールマイティ性を主張するのは、フェミニストというよりも、一部のフェミニズムの「献身的追随者」ということになるのかもしれない。何事も内省なしに、宗教的に盲信してしまえば学問の名を借りた(悪い意味での)宗教となるのだ。

医学論文を書くときは、「考察」のところで、必ず研究の「リミテーション(制限)」を書くのが一般的だ。制限の存在しない科学論文は存在しない。そして、論文の執筆者自身が、自分の論文の最良の批判的吟味者であるべきなのだ。

よって、研究者は自分の行った研究に内在する「制限」を(できるだけ)全て開示する。そのことが逆説的に論文の科学性を担保する。科学者が科学(あるいは科学・技術)のオールマイティ性を信じている、というのは門外漢の素朴な思い込みに過ぎない。もっとも、なかには夜郎自大に自分の研究を誇大に広告する人もいないではないが、そういう論文は決して高く評価されない。