パナソニック創業者の松下幸之助は、部下に対してどのように接したのか。PHP理念経営研究センターの編著書『松下幸之助 感動のエピソード集』(PHP研究所)より、一部を紹介する――。
訪れた松下政経塾の卒業生に熱心に語りかける松下幸之助氏(右)
写真=共同通信社
訪れた松下政経塾の卒業生に熱心に語りかける松下幸之助氏(右)=1984(昭和59)年8月29日、松下電器産業本社

一度目は経験、二度目は失敗

昭和30(1955)年ごろのこと、競争の激化によって、電機業界は非常に混乱していた。松下電器の代理店の中にも倒産するところが出て、被害総額は数百万円にものぼった。

倒産した代理店を管轄していた東京営業所の所長は、責任を感じ、始末書を持って、本社の幸之助のもとに出向いた。そして、こういう大きな損害をこうむった、これだけのお得意先に迷惑をかけた、金額はこれだけである、その原因はこういうところにある、と一つひとつ報告し、

「これはやはり私の監督不十分であります。まことに申しわけありませんでした」

と、頭を下げた。

「二度とこういうような失敗をくり返さないために、こういう対策を立てました。当面の処置対策はこのようにいたします」

じっと聞いていた幸之助は、

「そうか。きみな、一回目は経験だからな。たいへん高い経験をしたな。しかし、二度くり返したら、きみ、これは失敗と言うんだぞ。二度と犯すなよ」

そして尋ねた。

「ところできみ、最近の市況はどうや。ラジオや電球はどうや」

厳しい処分が下ることを覚悟していた営業所長は、そのひと言に涙があふれた。

おまえまでがそんなことをするのか!

松下電器の社員が50名くらいになっていた、夏の暑い日であった。その日のうちに、どうしても仕上げてしまわなければならない仕事があって、5、6人の社員が幸之助から残業を命じられていた。

ところが、遊びたい盛りの若い社員である。残業を命じられていた者も、みな仕事をほうって、広場に野球をしに行ってしまった。最後まで残っていた先輩格の一人が、皆に遅れて工場を出ようとしたときである、幸之助が出先から戻ってきた。

頼んでおいた仕事はできたのか、みんなはどこへ行ったのか、と尋ねる幸之助に、その社員は、仕事はあす仕上げることにして、みんな遊びに行ってしまったこと、自分もこれから行くところであることを告げた。

「なんやて。残業してやってくれと言うたのになんでやらんのや! 仕事をほっといてボール投げに行くとは何ごとか。それだけやない。おまえまでがそんなことをするのか!」

「……」

翌日、仕事が終わるころ、幸之助から呼ばれたその社員は、思いがけず夕食をご馳走になり、長い訓示を受けた。

「他人が遊んでいたら、自分も遊びとうなるやろ。けどな、命じられ、引き受けたことは、やり遂げる責任がある。その責任を果たすということは、人としていちばん大切なことや。そやから、わしはあれだけ怒ったんや。わかったか」

諭すような幸之助の言葉だった。

*「きみならば」「おまえまでが」「きみともあろう者が」という呼びかけは、幸之助がよく口にしていた表現である。